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お話伺いメモ 2008/7/12

80代男性、奥さんと2人暮らし。玄関の前に椅子が置いてある。そこに腰掛けてお話しを聞く。レコード家をしていたが店はもうアカンと言うことになった。音楽が好きでレコード家をしているのでない。軍隊に入ったが肺が弱く病気除隊になった。何か仕事をしないとラジオ修理を習い商売を始めたら、蓄音器も修理してくれとなって。震災の事は、なあ、苦労の話しはようせん。仮設は鹿の子台で、いい所やった。玉ねぎやサツマイモ作ったなあ。釘の工場に勤めたがくぎの箱もたれへんで4ヶ月でやめた。それでもマラソン走ったで、三田マラソン。孫がいるのでいいとこ見せようおもて。最初は3kmで車に回収された。次は5km。去年は10km走って記念の品もらった。

70代女性、一人暮らし。震災の前の日は有野台の倉庫に泊り、2階のプレハブから降りた時に資材がガラガラと崩れた。自分の家へも電車が止っていて帰れない。会社は中央区の摩耶インターの近くでダメ。倉庫で1ヶ月暮らした。東灘から息子たち一家が避難して来て、4畳半のところに5人も寝起きするのは大変だった。それから六甲トンネルを歩いて会社へ行った。50人ぐらいがやっと住める3階で暮らしていた。ご飯も炊くのに大きな鍋がないので一斗缶を二つに切ってご飯を炊いてお握りを作った。米やカン詰が大阪や色んな所から差し入れられた。災害って大変よ〜と云われた。自分が人を大切にしなければ、人は自分を大切にしてくれない。今が一番幸せと云ってくれた、話せば話すほどに笑顔が増えてゆくのが印象的だった90分。

70代女性、ご主人(80代)と2人暮らし。灘で被災。車で3晩すごす。神戸大水害、神戸大空襲、阪神大震災の3つの災害を経験する。兄は23歳で戦死。自分は中2で母を見送る。兄が出征する時マンドリンを奏でてくれた。蘇洲夜曲、夜来花、等。指輪を遺して死んだ。その遺品も震災前の家の品しなが全てダメになった。私はクラシックすき。今は韓国映画が大すき。当時貿易会社のタイプライターをやって、高給を取っていた。ご主人の会社が倒産。全て失い、今の住宅にすんでから、何も求めず暮らしている。昔の写真を懐かしく拝見しました。大変楽しい2時間のお話し伺い。

お話伺いメモ 2008/7/26

60代女性、1人暮らし。灘区で全焼。急いで2階から飛び降りて、足と膝を痛めた。1人でいるのでストレスがたまる一方である。子供と孫が北区に住んでいて、行ったり来たりしてくれている。昨日は病院へ行ってきたので、今日は疲れて寝てしまっていた。犬のみみちゃんを飼っているので、おかげで慰められる。犬の面倒が出来ないので、美容院へ連れて行って、シャンプーなどをしてもらっている。自分の美容代より高価で6000円ほどかかる。いつも癒されている。

70代男性、1人暮らし。先月胃が破れてたおれ15日ほど入院したが、今は点滴している。震災の時は市営の月6000円程の家でここが当たるまでいました。奥様が亡くなられた後は、子供たちとも別にいて、助かったのは集金に来られた方が見つけて下さってあり難がったが、1人暮らしの心細さがある。お話し伺いに行ったのに、クリームやビールを頂く。昔は船関係の仕事をして定年後は68まで働いていました。細身ですがなかなか心に1本通ったものがおありでした。心楽しいボランティアの喜びを教えて下さった方でした。2時間。

70代男性。兵庫区で全半壊。出張仕事で福井にいて、ニュースで知った。神戸へ帰って見たら紙が張ってあった。危ないので住むな、解体するとのことであった。震災のことは忘れはしないが、今後の事が大事だから。いまは福祉を受けている。震災後会社が倒産し、私のような 者は雇ってくれない。昭和9年生れで終戦の年小学校5、6年でろくな教育も受けていない。私は本当は長崎生れで3つの時親父につれられて神戸に来た。妹達は母親と田舎に残ったのか、そこの所は判らない。家族ずれを見るとうらやましかつた。鬼も菩薩も自分の心次第と思うが、今は人が怖い。一人で能書きを言って暮らしているのは幸せ。趣味はカラオケ。カラオケで友人も出来るし行動の幅も広くなる。5時過ぎの訪問。もう一度来ますとお別れする。

10代男性、家族と一緒に暮らす。被災時は幼かったため何も覚えていない。誰もケガ人はいなかったが、家は全壊だったと聞いている。小学校に入学する前まで東加古川の仮設住宅に入居していた。仮設住宅のときは友達と遊んだ記憶しかない。そのときの友達の一人とは今でも付き合いがある。

50代後半男性。母親と暮らす。母親は、たんすの引き出しの下敷きになり、あばら骨を折るケガをした。歳の離れた妹の結納の前日に被災したため、結納物がバラバラになり、母はたいそう悲しんでいた。避難所生活はしておらず、支援物資が届かず、灘までトラックでもらいに行った。震災後は加古川にてドカタ仕事をしていた。被災当時は、お金よりも命が一番と思った。また、物質的には豊かだと思ったが、均等に配分されていないと感じた。今は、自分だけが何かして欲しいとは言えず、健康第一で食べていければいいと思っていると話された。


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