トップお話伺いメモ2009年お話し伺い訪問メモ>4月

お話伺いメモ 2009/4/11

60代男性,一人暮らし。長田区で全壊。住んでいた文化住宅に約2週間生き埋めになっていたため,足の感覚がなくなり下半身不随に。救出後4ヶ月間入院しているうちに自宅が解体され,何も取り出せなかった。その後4年あまり、あちこちの病院に入院したのちこの復興住宅の車いす対応の部屋へ。部屋ではベッドの上で時間を過ごす。時折足を動かし,関節が固まらないようにする。食事は1日1回で全部済ませる。最近トイレの時間が長くなってきたのが心配。車いすのままでもできるよう台所の流し台まわりを改造してもらった。画質にこだわって大型プラズマテレビを3台買い換えた。ベッドの上からこれを操作できるよう,マジックハンドのような道具を自作した。執拗な新聞の勧誘や訪問販売などへの対策として,玄関とスロープで外に出られるベランダの両方にCCD付のインターホンを自分自身で取り付けた。画像は録画して大型ディスプレイでも見られるようになっている。上半身の自由を最大限以上引き出す工夫と、自立への強い意欲に感心させられた。2時間近くにわたる,お部屋に上げていただいてのお話し伺いとなった。

80代女性,一人暮らし。中央区で全壊。生粋の江戸っ子でお嬢様育ちなので,復興住宅の人々になじもうとしてもなかなか受け容れてもらえない。ほとんど寝たきりの状態で,現在入院中のため,留守番の方からお話し伺い。

50代女性。ご主人とお母さんと3人暮らし。話に応じてくれた女性は、最初は厳しい表情。まなざしもきつかった。生活に疲れきった、といった印象。ドア越しのインタビューとなった。
震災当時は、ご主人と2人でケミカルシューズの部材の卸売業をやっていた。避難所にしばらくいた後、姫路の社宅(家賃無料)に約1年いた。その後、姫路の県営住宅に3年ほど住んだ。両親が兵庫区に住んでおり、借家は半壊。一人っ子だったため、仕事を持っていた父親を神戸に残し母親を姫路に連れていった。母親は目が不自由(全盲で障害者1級)。震災で長田のケミカルシューズ業界が壊滅状態になり、部材の卸売業が続けられなくなり、ご主人は慣れぬ漬物屋に努めた後、NHKの集金人になった。神戸に戻ったのは、母親が父親のいる神戸に帰りたがったため。ちょうど神戸市が送ってくれた市政だよりで復興住宅の募集を知った。ご主人は神戸に戻った後もしばらくNHKの集金人をしていたが、賃金の割にノルマがきつく辞めた。父親はその年の10月にガンで亡くなった。その後、小さな車を買い、夫婦で宅配便をやったりしたが、ガソリン代を払うとほとんど残らなかった。ご主人は現在、ビル管理会社に勤めているが週に3〜4日ほどしか勤務できず、賃金も安い。奥さんもアルバイトをしているが、足に人工骨を入れており長時間立っていられない。なんとか生活をしていけるのは、子供がなく、家賃が安いほか、母親の障害者年金があるからだ。その母親も80半ば。最近は認知症がでている。いつ亡くなるか分からない状態で、亡くなれば年金がもらえない。将来の生活を考えると不安でたまらない。今、一番困るのは銀行が近くにないこと。以前は交番の横にみなと銀行の引出し機があったが、いつの間にかなくなった。不満なのは駐車場料金が高いこと。月2万円もする。車椅子の障害者がいる家庭は無料で借りられる。車椅子の障害者の家庭は無料なら、全盲の家族がいる家庭も無料ないし割引価格で借りられないものか。ここに来る市の職員に話をしても「私らではどうもできない」と逃げられてしまう。話を伺っている間に、相手の表情が和らいできて、正直ホッとした。何らの罪もない人々が、天災のために肉親や仕事、家を失い、生活苦に追い込まれる現実。格差社会が広がる中で、被災地がますます取り残されていくのが実感だ。国や自治体は何のために存在するのか、とあらためて考える。

70代女性、1人住まい。3人で訪問したが、事前のチラシ配布で訪問を知っており、快く迎えてくれた。1DKの室内には、近所の県営住宅に住むという女友達が遊びに来ていた。6畳ほどのDKはミシンと生地の裁断台など洋裁の用具一式が置かれているほか、テーブル、冷蔵庫と茶箪笥だけで極めてシンプル。小奇麗に片付けられている。セーターに刺繍入りのベスト、頭髪もよく整い、薄い化粧を施しており、非常に若々しい印象。話し声も明るく、テンポがいい。紅茶をご馳走になりながらのインタビューとなった。女性が洋裁の道に入ったのは20歳の時。当時、山本通りにあった中国人が経営する店で6年間見習い修行した。顧客の大半は総領事館勤めをする外国人の婦人だった、という。その後、小規模ながら自分の店を持ったこともあったが、結局は兵庫区にアパートを借りオーダー洋服を仕立てていた。被災地は兵庫区の平野。アパートで母親とふたり住まい。2部屋かりて1室は仕事場に、もう1室は母親の住居を兼ねて寝起きなど生活の場にしていた。震災の被害は軽微。茶箪笥のガラスが2枚割れ、テレビが台から落ちた程度。アパートは半壊だった。震災時は、母娘ともよく眠っていたため、地震そのものの恐怖は感じなかった。「ひどい目に遭った人には本当に申し訳ないと思うけれど、そのあとの余震のほうが怖かった。幸い知人には死んだ人もいなかった。」と話す。近くの避難所で2日過ごし、加古川の親戚に母親と身を寄せた。2カ月後、アパートが補修され、元の住まいに戻った。しかし、震災のダメージは予想外に大きかった。被災による生活苦からか、洋服のオーダーがすっかり減ってしまったのだ。加えて顧客も年々高齢化し、注文の減少に拍車をかけた。同居していた母親を5年前に84歳で亡くした後は、「気が抜けて仕事する気も出ず、1年くらいブラブラしていた」という。その後、呉服を洋服に仕立てる四国の業者を従姉妹に紹介された。業者からは、次々に仕事が舞い込む。「私は手がキレイだから」と。“手がきれい”とは、業界用語で「腕がいい」ということらしい。「寸法を取ることから仕立てまでできる人はあんまりいないから」。その道一筋に半世紀余りのプライドを垣間見た。母親と同時期に弟と妹を相次いで亡くしたほか、これまでの生涯を独身で通したため、家族はもう誰もいない。「家賃は安いし、食べていかれればいい。目も悪くなってきたし…。だから仕事は3時間か5時間程度で終え、頑張らないんです」と笑う。「毎朝、目が覚めた時に、今日も生きてるんか。アレもコレもやらなあかんのやな」と考えるとも。現在は「コレというほどの不満はない」そうだが、「ここに来てから、市の人も区の人も一度も来てくれない。民生委員の人の紹介さえない。『勝手に住んどけ』という感じ。もし体の調子が悪なって動けんようになったら、どうしたらいいんやろ」と不安そう。「『勝手に住んどけ』という感じ」−の言葉が、胸にズシンと突き刺さった。女性ながら、洋裁の腕前一つで家族を支え、50年余を生きてきた誇りに満ちている。その一方で、家族のために自分を空しくしてきたのではないだろうか?この人に限らないが、ひたすら真面目に生き抜いてきた人々が、身寄りもなく晩年を迎えた時に、行政を含めて私たちは何をしたらいいのだろうか?「『勝手に住んどけ』という感じ」−の一言は“棄民”という言葉を連想させた。

お話伺いメモ 2009/4/25

80代女性、一人暮らし。今日は病院に行くから忙しいと言われるが、被災地はとの問いに「灘区で全壊だった」と答えて頂いた。何が起こったか分からなかった、私は埋まっていたから。両隣は一人づつ亡くなられた。埋まっていたら、お孫さんが助けに来てくれて病院へ。頭を7針縫うケガだった。その後は親戚の家にいたが気を遣って大変だった。六甲アイランドの仮設住宅を経てHAT神戸に入居してちょうど10年。「最初は皆知らない人ばっかりだったけど、今は仲良くやっている」と話された。同じフロアの女性を集めて茶話会を開いたりしていると明るく語る。私の世代は戦争も経験した。17歳で徴用され見習い看護婦として大阪の病院に勤務。ちょうど空襲があり、とても大変だった。「戦争にも震災にも遭い生き残った。『私には生きる使命があったんだと思う』」、その力強い言葉に重みを感じた。息子さん3人を育てあげて、8人の孫、2人のひ孫がいるとのこと。明るく、時に力強い語りにたくさんのことを教わった気がする。

70代女性、子息と2人暮らし。震災当時は、二階建て上下6戸の文化住宅の一階中央の部屋に夫と2人で住んでいた。震災では一階部分がつぶれて、二階が落ちてきた。6畳の間に布団を並べて夫と寝ていたが、傍らのタンスが倒れて引き出しが飛び出し、その間に挟まれて身動きができなかった。夫の様子は見えず、最初は声をかけると返事があったが、次第に声が聞けなくなった。二階の落ちた柱だろうか、それを血の出るほど叩き、声を限りに助けを求めた。そのうち、二階に住んでいた若い兄ちゃんが気づいてくれて「おばちゃん、どないしてでも助けたる。頑張れよ」と声をかけ続けてくれた。姫路から来た消防隊に足から吊あげられて救出されたのは午後4時。「まだ主人がいる」と訴えたが、「残念ですが、ご主人の応答がない。他に救出しなければいけない人が沢山いますので…。申し訳ありません」と消防隊員は頭を下げられてしまった。お隣のご家族は3人か4人なくなったそうだ。夫の遺体が掘り出されたのは2日後。警察官に「ショックが大きいだろうから見ない方がいい」と勧められて、死骸を見れなかった。家財も一切持ち出せなかった。夫の遺体は集会所にほかの方の遺体とともに収容されたが、検死葬場の関係で「2月中の葬儀は無理」といわれた。実家から弟が駆けつけて警察と交渉し、葬儀は身内だけで執り行った。3年半ほど、そのまま弟の世話になり、今の復興住宅に入った。今まで生きてこられたのは、震災前から書道と短歌に親しんできたからかもしれない。3年前からは短歌の先生の都合で短歌が習えなくなり、俳句に切り替えたという。現在は子息と二人暮らし。外目にも疲れの色は隠せず、生活の大変さは相当のものだろうが、あえて多くを語ろうとしない。「俳句と短歌のおかげで頭だけはしっかりしているから」と表向きはあくまで気丈。どれだけ話しても他人には本当のことは分かってもらえない―そんな一種の諦念のようなものさえ感じられた。俳句と短歌を一首づつ紹介しておこう。「わすれない あの日の苦しみ 五時四十六分 むだなく生きて 亡き父に語ろう」「シニアとて 革命ありや 花茨」。心の奥底のやるせない、悲痛なまでの叫びを聴いた。


2009年お話伺いメモ目次に戻る