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お話伺いメモ 2009/9/12

70代女性,一人暮らし,中央区で全壊。震災時は入院中のお父様に加え,地震のショックで切迫流産しかけた娘さんに付きっきりとなり,ついでお母様も入院し,避難生活の中で両親を亡くした。避難所にいなかったため,さまざまな手続きについての情報が得られず,義援金はもらえず,仮設住宅にも入居できず,高い家賃の借家に。5年ほど前にもお話し伺いをさせていただいており,そのときの東條代表をよく覚えている。その後この復興住宅の情況も変わってきて,最近では隣近所の人とはあいさつをする程度で,それ以上は接しないようにしている。

50代女性,中央区で全壊。震災時小5だった娘さんも今25歳。避難所になった小学校は,翌年度まで統廃合されず,友達とも卒業まで一緒に過ごせた。ポートアイランドの仮設住宅からもとの自宅近くの中学に通ったが,この復興住宅入居後は近くの中学校に。仮設住宅でのボランティアと最近まで交流があり,私たちの訪問にも「ボランティア,懐かしい」と喜んでくれた。

60代女性、中央区で全壊。震災当時は、近くの公園のテントの下で親子8人(男の子4人、女の子3人)が生活してきた。水がなく、トイレも不便で大変だった。しかし、週に何回か車のタンクローリから水をバケツの1杯を頂き、嬉しかったことを昨日のように思い出します。助かりました。風呂は1週間に1回と決められていた。風呂のありがたさも子供達は体験したので今は水も大切に使っているようです。当時、風呂で洗濯をしている人があり、自分が風呂と水は、今一番大切なのでここでは洗濯をしないように勇気を持って注意した。みんなの気持ちも同じだったと思う。自分だけでなく、人の事を思う気持ちが大切と話された。家は母子家庭のため、収入も少なく、援助も受けていたが食べる物はなく、生活は大変だった。パンの配給があったが毎日のように、アンパンだけでは栄養が偏り、病気がちの自分は精神的にも落ち込んでいたが、子供たちの為に頑張って来れた、と思う。震災時は、これからは特に食事、食べ物をバランス良く与えられるように準備することが大切と思います。自分は震災当時、40代であった。今は、孫に囲まれて生活している。子供たちもみんな割りと近くに家を持ち生活しているので普通に幸せかもしれません。しかし、これからは自分の健康が気になるが、声は大きく、いつも明るいので、楽しく生きて行きたいと軽く話しておられたのが印象的でした。

80代、灘区で被災。家は半壊と思っていたが震災直後は何かと忙しく余裕がなかったため届出が遅くなり、立会いも出来ず、一部損壊となった。支援金は何もいただいていない。同じ程度で半壊になった人もあり、支援金をもらったと聞いて、羨ましく思ったこともあった。80代の母は今日、透析を受けるために入院中で、週に3回の透析が必要とのこと、もっと以前からしていれば良かったかもしれない。何でも早め、早めがよいと思うと娘さんは話された。名谷の市営住宅からこの復興住宅へ来た。当選してよかった。ここは割りと三宮にも近いので買い物にも便利でよい所です。母は頑固で食事の味付けも別で、たまに喧嘩ももしますが、母のためにも頑張りたいと、にこやかに話された。親おもいの娘さん(50代)でした。

お話伺いメモ 2009/9/26

80代、女性。1人暮らし。長田区で5〜6軒の1階で長屋全壊。2階が1階に倒壊した。避難所に1年。その後、西区の仮設住宅に2~3年居住。仮設住宅の感想を伺うと、「こわかった。」(なぜとお伺いすると)「人がいないので。」バスがないので不便とも。兄妹は4人。お子さんは4人。現在は、孫が2人、ひ孫が3人。一番下の息子さんとは、電話で連絡を取るとのこと。兄とは別に暮らしていた。4年前に亡くなる。生前は人工透析をあちこちの病院で受けていた。兄のために購入した車椅子を、大事そうに今でもお部屋に保管されてるのを見せていただいた。旦那様は33年前に亡くされたそうです。普段は、ケヤキ広場に散歩に出るが、お伺い当日はあいにくの雨。雨の場合は、玄関表の廊下を運動のため、往復されているそうです。また、住宅入り口エントランスでくつろぐことも。一週間に1回お手伝いさん(ヘルパーさん?)に来ていただいているそうで、部屋はかなりきれいにしていられた。いざという時の為に、役員さんに鍵を預けているとのこと。防犯のため、息子の大きな靴を玄関口に置かれておりました。1時間近く、重苦しい内容を明るく気持ちよく話されていたのが印象的でした。

30代、女性。中央区で被災、半壊。被災後もずっとそこで暮らした。結婚して子供が出来たため、抽選で応募したところ1回であたりこちらに引っ越した。家族3人仲良く暮らしている。


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