お話し伺い訪問メモより
2001年5月12日
[復興住宅]
- この棟には高齢者が多く、かなり痴呆のある方もおられ、所構わずゴミを捨てたりしています。そのような方のところにボランティアが多く訪問して欲しいです。腰を悪くしてリハビリ中、腰さえ良ければ自分もボランティアに参加したいという60代のお母さんからお話しを伺う。(赤西、木村)
- 兵庫区の海岸通で被災して須磨区の仮設住宅に移されました。復興住宅は兵庫に帰りたいと申し込んだが当たらず、けっきょくこの名谷に残る事になりました。週2回のディサービスがあるが結構楽しいですね。ここは近所づきあいも少なく、特に男性の一人暮しの方はどうしても閉じこもり気味になっています。一昨年ぐらいまではボランティアなどの訪問もあったのですが。と70代女性の方からお話しを伺う。(赤西、木村)
- 50代の一人暮し男性。「自分がドアを開けて話しをするのもめずらしいですよ」と言いながら戸口で快く短時間のお話しを伺いました。趣味も無く、意地だけは強かったが年を取るとそれも無くなって行く。短気な性格で人を傷つけてもいけないので家で寝ている、と言いながら20年ぐらい前に仕事で高いところから落ちて以来の、からだの不自由やご家族のことをお話し頂いた。食事もコーヒーやパンで済ます事もあり食べない事も多い。病院の先生が外出を勧めるが「元気に歩いている人を見ると腹が立ち、外出はしない」と。1日中イヤホンをつけてテレビを見ているのでドアホンも聞こえないが、今日はたまたまジュースをとりに立ったのでドアを開けたと、笑顔を交えたお話しを伺った。(白岩、柴原)
- 近くの日赤病院が入院できない診療所になってしまう不安を訴える、81才の一人暮しの女性からお話しを伺う。緑内障で人の顔の見分けがつかないが声で聞き分け、極力ご自分で何もかもやりたいとの強い信念で生活しておられるご様子を聞く。(籠嶋、川崎)
- 70代のご夫妻。須磨寺近くの民家で被災。家屋全壊であったが1週間後には運良く西区の県住に入居できたが、そこではよそ者が来た感じで全く相手にしてもらえなかった。ここは住人どうし付合いが良く、留守にする時も声を掛け合って外出している。良いところに入居できたと、直後の県住の様子を振り返り、駅にも近いこの生活環境を満足して折られた。(籠嶋、川崎)
- 60代、70代のご夫妻。奥様からお話しを伺う。長田区で被災・全壊。1階にいたご主人は家の下敷きになり、助け出されたのち大腿骨骨折で1週間の入院。2階にいた奥様は首下がひっかかってしまい抜けられず、近所の人に引っ張り出してもらった。ご夫妻はその後西区の奥の仮設住宅に移ったが、仮設の生活は雨に濡れてたたみや床がビチョビチョとなり、風が吹くと揺れてその都度地震ではないかと、大変だった。山梨県のお寺のボランティアに気にかけていただき、地震の時に助けていただいた方と6ヶ月ぶりに再会、との感激体験も。現在、ご夫妻ともに病院通いだが元気。しかし、年金生活者が介護保険費用を自動的に引き落とされるのは本当に痛い。これだけは訴えて欲しいと切々と話されました。また、介護してもらう時にさらにお金がかかるという現状を何とかして欲しい。神戸空港は要らないというご意見も頂きました。神戸市からの訪問はこの3月で打ちきりになり、ドンドンそう言う活動が減る中で、ぜひこの訪問は続けてくださいと言われ、あの1.17は一生忘れられない、と締めくくって頂きました。(西谷、西村)
- 訪れたところ、お葬式の準備中との事でお話しは伺えなかった。そういえば下の集会所をにわかに立ち退かされたのは、このお部屋の弔事が発生した為なのかと、急変する復興住宅の状況に直に触れた思いがした。(西村、井手上)
2001年5月26日
[復興住宅]
- 70代のご夫妻からお話しを伺う。
二人暮しなので日頃はさびしくないが、年金が少ない為に普段の生活が大変である。
お金があれば少し遠くへ旅行をしたいのだが、今は駅の周辺にしか行かれない。子供が時々来てくれるので精神的には良いが、経済的のもっとナントなならないのかと思う。電話もかけるとお金がかかるので自分からはかけられない。
地震のときに、ともかく財産類はなんにも持って逃げる事が出来なかった。公的な支援はもう無いのだろうか。(小波本、鴨頭)
- 80代と90代のご夫妻。お部屋で話し込む。
二人とも現在外科の医者に通っている。地震の時、全壊で下敷きになったがようやく助かった。6人の子供を育て上げ、水害と空襲と震災を経験した大変な人生であった。いまは多くの孫やひ孫達のかこまれて恵まれていると思う。
「自分の家が全壊し、更に全焼して行くのを見るのは人生で一番つらいことであった」と語りながら、地震のときに近所の方に助けてもらった事が多い、とのお話しを伺った。(小波本、鴨頭)
- 50代と60代のご夫妻からお話しを伺う。
突然のゆれに驚くと共に、とっさに自分達の安全確保に精一杯の状態であった。全壊した家からやっと這い出して、隣近所の埋まった方を助けて歩いた。
公園で寝泊まりの生活が始まったが、近所の方々と協力し合って過ごした。
仮設住宅時代は楽しかった。60棟の仲間達と協力し合いながら、ボランティアのようなことをしながら積極的な活動をして過ごした。今は家族の病気もあり実際には出てゆくことが出来ない。ボランティアさん、必ずまた来てくださいねと言われた。感謝しているとの事である。
ビールを勧められたが、断るのに苦労した。一杯ぐらいは良いのではと何度も言われたが、断るのがつらかった。(小波本、鴨頭)
- 家は全壊。仮設住宅は不便で大変だった。
今も働きたいと思っているが、年齢が年齢だけに雇ってもらえない。外に出たいがからだが不安でなかなか出来ない。ボランティア活動に興味がある。
平屋に居たのでマンション暮らしは戸惑う人が多い。友人が多いので以前の住まいの近くに戻る事が多い。命の大切さや近所づきあいの大切さを知った。地震の時の「助けて」の声が今でも耳から離れない、と様々なお話しを伺う。(篭嶋、宮川)
- ここへ来てからノリによるアレルギーで、夕方になると急に気分が悪くなる。
高層住宅に移ってきてからからだの調子が悪くなる人で、建物のせいである人も多いのではないだろうか。
5月に仮設住宅の同窓会をやったが楽しかった。自分達の仮設住宅は、10人の方が亡くなったが、公営住宅に移ってから亡くなった方が10人になったと聞いている。この階でも昨年二人の方が亡くなった。
助け合い励まし合う人の半分は仮設住宅の時代の人だ。あとの半分はむかし住んでいた地元の人だ。仮設時代の人間関係は大きい。ただし、程よく離れて住んでいればこそかもしれないが、と言って笑われた。
元の土地に戻って家を建てようとしたが、消防車が通るような道の広さを優先的に取ったため、住む場所が狭くなり、その上近所で土地を売りたがっている方が多かったので、売却に応じた。終の住処のつもりであったが今はもう未練は無い、と言いながら、戸口を開け放った玄関に座り込みながら、様々なお話しを伺った。(南野、東條)
- 地震で下敷きになったが布団をかぶって逃れた。
仏壇が崩れて埋まった。12月に新築した家が1ヶ月で崩れてしまった。仮設住宅は高砂に3年半も居た。本当は元の長田に戻りたかったが、ここで良かったと思っている。
「かみひこうき」を出します、と言われた70台奥さんからお話しを伺う。(南野、東條)
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