お話し伺い訪問メモより
2001年12月8日、22日
[復興住宅]
- 79才男性。奥さんとケンカがストレス解消や、といいつつ日溜りの屋外でお話しを伺う。健康第一、元気で病院なしだ。人生は運と努力が半分づつ。困った事は特に無いが、とにかくお金が無かったらみじめ。お金が無かったら生活できない。タリバンの仏像破壊にしても感謝が無くてはダメ。(篠原、佐藤)
- 65才女性。家は全壊。いまだに体が震える感じ。ゆれに敏感になってしまう。米のとぎ汁などを使ってトイレ用の水にするなど昔の知恵が役に立った。今でもお風呂の水は絶対に抜かない。でも戦争よりはましだ……。住宅に何度申しこんでも当たらず。役所の人間に怒り飛ばされた。ここは交通の便が悪い。接続が全然不便。地下鉄へのつながりが不便。被災者には「してもらって当然」という考えがある、とちょっぴり批判も。(矢野、中山、氏原、小川)
- 50代女性にロビーでお話しを伺う。バスの不便、交通不便を訴える。国会に腹を立て「小泉政権はあかん!」「被災者の心をきけへん!」といきどおる。自分も身体は悪いけど、限度まで弱者は支えたいと思う。結果は必ず返ってくる、と語る。(森、田中、菰田、華山)
- 70代女性。夏は手が動いていたが冬になると…。チョットでも歩かないと血糖が下がらないし。住宅が良い人ばかりで助けてくれます。ボランティアがよく来てくれるので嬉しいと。嫁が迎えに来たがやっぱり神戸で生まれたから神戸にいたいと断ったとのこと。悲しそうな顔をして、お互いに悪い事を言い合っている、と言われる。今8300円の家賃が1年後から上がって行くのが心配。道路の向こうのバス停まで用渡る事が出来ない,と言われる。ここに入ったら死ぬ方がまし,孤独死が多い。誰にでも会ったらおはようと言う。自分が真っ直ぐ見れば相手も真っ直ぐ見る。人を嫌ってはダメ、と。(田中,長船)
- 80代の母と二人暮し、50代女性。現在バイトをしているが中々仕事が無い。就職は難しいです。母が心臓を患っていて外出がし難いので、周りの奥さん方と一緒に動けない。ここは交通の便は良いですが,高齢者にとっては住宅までの坂がつらい。近くに道路があるので騒音がすごい。夏には排気ガスやほこりが入ってきてしまう。(玉井、山田、仲島、猪上)
- 75才ぐらいの男性。「もう震災についての話しをしたくない、ほじくり返さないでくれ。思い出したくない、忘れたい。」の連発にこちらが泣きそうになってしまった。しかし最後に涙を流されたとき、震災のお話しを直接聞いた訳ではないけれども、何か感じるモノがあった。最初の訪問だったので強いショックを受けた。今まで震災で受けた「心の被害」というものを甘く考えていた。この震災が与えた影響は何年経っても薄れない(逆に強まっている)と思う。「もう来てほしくない」と言っていたけれど、これからも問うすを見に行ったほうが良いと思う。(今井、加藤、青山、田倉、白岩)
- 80代父、50代娘、10代孫。飲食店を経営していたが、朝4字起床で店の準備を終わりカウンターで一休みしてお茶を飲んでいた。外を見ると南の方が真っ赤になっているので今日も晴天と思っていると、すごい音がしたので何だろうと思った瞬間、地面が左右に揺れ始め、店内の食器棚階段にあった物が崩れ落ちてきて足の置く場もなくなった。2階で娘と孫が寝ていたので直ぐに助けに行ったが、扉が変形してしまって開かないので壊して助け出した。震災前から孫が風邪の為40度の熱で窓際で寝ていたが、風が強いので反対側で寝ていたのですが、鉄筋の建物であるがセメントが厚いそれが倒れたが逆に寝ていたので助かった。外は道路の水道管が破裂して噴水で、周辺は大水で外に出たものの片隅で夜をあかした。電話不通、誰も連絡が取れなかった。自宅は長男に頼んでいたが家をやられたので行方不明。近くの震災に遭っていない方達が訪ねてくれ食事を持ってきて下さった。午後3時ごろ垂水に居住の次男が来てくれたが交通も麻痺して来るのもやっとのことであった。次男の所で4ヶ月ほど世話になり、5月頃に仮設住宅に移った。平成10年7月に現在の住居に居住。落ちつきました。(本人自筆)
- 92才と96才のご夫妻。長田区で被災、病院に入院中の奥さんは知人からの電話で自宅が燃えているのを知った。急いで帰ってみたが自宅へは近づけなかった。ご主人は首の下まで埋まっていたが自力で脱出した。小学校へ逃げるにもすぐ近くなのに、あちこち燃えているので遠回りした。途中、屋根の上から夏布団を投げてくれた人がいた。はきものも途中で「これ、はいといて」ともらった。小学校にいるとすぐ息子が来てくれて、避難所の苦労は知らずに子供の家を転々としてくらした。それにもつかれて北落合の仮設住宅に入れてもらった。今は週3回ヘルパーさんが家の掃除と買物、炊事に来てくれる。ご主人は長いこと会社づとめして定年後も近くの公嬢で働いていたので、二人で食べる分ぐらいはなんとかできた。神戸水害、神戸空襲、大震災に遭い、その度にゼロから立ちあがって来たが、もう疲れた。早くお迎えが来てほしい、死にたい。知人だけでも28人、あの日になくなった、と言われていた。(堀内、岡部、熊田、柿崎)
- 60代ご夫妻。長田区で被災。奥さんは2階で、ご主人が1階で被災。近所の人に掘り出してもらったが、ご主人は大腿骨骨折。手術中つきそった奥さんが疲れから発病し、左眼は視力がほとんどなくなった。今は、集会所で手芸をしたりして友人も出来た。仮設ではボランティアの人達に良くしてもらった。心配なのは、介護保険料が10月から満額とられている事。息子のところも子供が小さいのに、お金が掛かるのに介護保険料が40才から掛かってくる。高校生ボランティアには「遠いところから来てくれてありがとう。がんばってね」とおっしゃってくださった。玄関内に私達を招き入れて立ち話だったのを、申し訳ながっておられた。(堀内、岡部、熊田、柿崎)
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