お話し伺い訪問メモより
2002年2月9日
[復興住宅]
- 最近は、集会所で毎日みんなとおしゃべりしている。10人ほどの決まったグループで、他の方々は家に居るのだろう。「お年よりも結構元気よ」とのこと。しかし「坂が多くて外へ出るのがおっくうなので、タクシーを使う。近くのローソンに行くのも難儀。誰かとしゃべりながらなら上がれるが、一人ではおっくうになる。結局お金がかかる。おまけに路上駐車が多く危ない。事故が無いのが不思議なくらい。知人が来ても車を止められないので。ここは車でないと来られないんでしょうね。ここは「便利が良い様で悪い」。灘区で被災。文化住宅で2階がペチャンコになって、上の人のテレビに当たって下のひとが亡くなったのも見た。声の出ていないところは死んでるやろうと後回しで、ほっておかれた様だ。火災で亡くなった人もいたし、「私はまだましなほう」と。今でもたまに思い出して目が覚める。が、「ここが倒れるくらいやったら、他でなっても一緒やし」と思うようになっている。(志知、華山、増田、長船)
- 震災後は「長かったような、短かったような人生」という70代ご夫妻に伺う。しんどいときにタクシーを使ったらお金が無くなる。今は年金8万円に家賃7900円を払っている。貯金も底をついて来ている。「地震のときに死んでいればよかった」と振りかえられる。木造の2階に寝ていた。「ハンモックで揺すられたみたい」だった。やっとアルミ製の戸から逃げ出した。長田の街が燃えるのを見ていた。生活保護の資料をお渡しした。「一度、役所に行って見るわ」「少し恥ずかしいと思っていたが、いま話しをして見てすっきりした」「寿命がある限り生きなあかんし。自分が悪いと思うて生きてきた。こんなんばっかりや。自分の身の上の事とかはめったに人に言わへんし。たまってたんや。」と兆時間のお話しを伺う。(志知、華山、増田、長船)
- 80代後半、一人暮し女性。新築7年の家が、地震では壊れなかったのに火事で全部焼けてしまった。着物も何も無い。ご主人が亡くなってからずっと一人暮しで慣れて来た。民謡や唄の習い事で長田までよく出かける。「踊りはこっち向いたら忘れよってですね。唄だけですわ。」「興味があるのは、小泉さんとか政治関係。田中元外務大臣等のネタになると新聞に赤線を引いたりする。」「杜氏よりは皆面白いよって、みとりはりますわ」との事。他のひととは外であったら話すだけで、わざわざ家に入ってまで話したりはしない。他の人はしんどいとか体の調子が悪いとかいった話をしてくるには同情するけれど自分は言っても仕方が無い、と。仮設住宅では家賃を払わなくてよかった。いまでは家賃を払うのが馬鹿らしい。エレベーターで出会ってからそのまま訪問し、楽しくお話を伺う。(矢野、志知、佐藤)
2002年2月23日
[復興住宅]
- 80代女性1人暮らし。このベルデ名谷は入居の条件に、動く歩道を設置してくれる事になっていたのに。それが出来ていないのでこのシルバー棟が一番不便で危ない場所になった。40年以上住んでいた家が全壊、玄関の僅かな隙間から脱出した。となりの奥さんは亡くなられた。親からのしつけで「大切なものは一まとめにする様に」言われていて助かった。震災後かなり経っているので「ボランティアには甘えられない」と心掛けている。住宅内ではなかなか本音で話せる機会がない。でも「あなた達ボランティアには何でも話せる」といわれて2時間のお話し伺い。戦争の時、12月25日に赤紙が来て、震えていた。私は「彼」を励まして送り出した。関東大震災の時、一ヶ月間野宿した話。昭和20年の南海道大地震の話し、津波にやられ朝になったら船が橋の上に座っていた。(白岩、石川)
- 80代男性1人暮し。灘に50年以上住んでいたので、どうしても灘に帰りたい。仮設住宅は六甲アイランドだった。軍隊生活で「耐える」ことを学んだが、まあそれも役に立った。仕事で大きな怪我をしたがそれぐらいで身体は丈夫な方。約一時間かなり大声でたくさん語ってくださった。時間のため帰るのがはばかられた。(白岩、矢野)
- 80代女性、1人暮し。兵庫で被災、全壊だったが残った2階でしばらく寝泊りしていた。登り坂の極めてきつい県住に役所の紹介で越したが参った。3年目にやっとここへ移ったので、この坂は何ともない。今は毎日外出している。気が張っているからここまで来れたと思う。「今日はたくさんしゃべったが、ご迷惑ではなかったですか。本当にありがとう御座いました。また来てください。」と小1時間の訪問を終わる。(中山、坂本)
- 70代女性、一人暮し。インターホン越しに「風邪で寝ているので」と断られた後、突然ドアが開き、中へいざなわれて1時間以上のお話し伺いとなった。真面目そうな若い人達だったので、との事。新長田の家が全壊したがもう年だし再建していない。朝早くから起きて働き続けているので、生活保護の人達とは話が合わない。買物にはタクシーで行く。名谷まで1060円。ここの坂道はつらい。ヒールの高い若い人達はこけそうになりいやだといっている。不法駐車が多く子供が飛び出して危ない。下の店は店員教育が行き届いて感じが良い。が生鮮食料品がなくて困る。訪問者の1人1人に「じみやな、もっと派手にして輝かな」「しっかり働いて、勉強して親御さんを安心してやり」「ええ、東尻池に住んどったん。そうか、あんさんも長田かいな」と涙ぐみながらのお話しも。(中山、矢野、坂本)
- 僕は被災者ちゃうで、と60代男性、一人暮し。病気になって仕事が出来無くなって神戸に帰ってきた。糖尿も心臓も重なってお金も無くなり、福祉と年金で暮らしている。さんざ遊び歩いたのでもうええ。病院に行ってもセンセが妙に優しいからもう長くないやろ、今日明日死ぬのも怖くない。と2時間半のお話しを伺う。週末ボランティアが来るというチラシを見て、「被災者だけが入居してるんでない。オレらみたいな、特定、で入った人もいるということを分かって欲しかった」。被災者でないことを理由に陰で悪口を言ってることもある。被災者でない差別を感じる事もある、との言葉も。仕事が盛んだった頃のお話しと、珍しい知識と、派手に活躍していた頃のお話しをさまざま伺う。(猪上、佐藤、籠嶋)
- 70代男性、1人暮し。自宅全壊。この時に首に何か当たったらしい。脊髄が故障して手や腰がしびれたり痛くなったりする。坂はゆっくりだったら歩ける。「チョット買物するにも店はないし、出たら1週間分のものを買ってくるけどそれが不便。」冬は良いけど夏場が不便。これだけ開けてきているのに「いつか新しい店できると思ってたのに」これだけ開けてきているのに、と不思議がられる。(長船、華山、なめ田)
- 70代女性、1人暮し。支援シートに自筆書きこみ頂き、物干し修理の依頼もあり直す。「かみひこうき」をテレビで見たことがあるといわれる。夏の西日がたまらんですわ。スーパーが無いのが困りますわ。マクドなんか要らんのにねー,と嘆かれる。「机の上で考えたようなシルバーハウスとかとちょっとちがうわな。センサーとか守ってくれとるとか言うけれど、何かな? 」。昔からの家族の間柄のような知人の手厚いお世話になり、今はなんとか食事も自分で造り、感謝の毎日です。と退院間も無い身体を労わりつつのお話しを伺う。(長船、華山、なめ田)
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