お話し伺い訪問メモより
2002年3月9日
[復興住宅]
- 80才後半女性、須磨区で被災。朝早く神社へのお参りに出かける途中、道で地震に合い、突き上げてくる地面に倒されて背中を打ち入院した。それ以来、首にコルセットをしなければならなくなった。人に呼ばれてもすぐに振り向かれず、聞こえているのかと思われる。「この団地は坂がきつくて大変。こんな所へ障害者を多く入れて市はひどいことをする。エスカレータをつけるというとったが、エスカレータの「エ」の字も見あたらへん」とウソをついてまで入れた市のやり方にプンプンだった。それでも慣れて来ると、ここは空気も良く朝はうぐいすも鳴き気持ちのよいところ、と今はお気に入りのご様子。散歩中、坂がきついので坂の途中、道の端に座って休憩していると、皆が心配して声をかけてくれる。「皆さんから良くしてもらって幸せです」と感謝の気持ちを云われた。ヘルパーさんにも週に一度買物をしてもらっている。ご家族の病気の心配などお話を伺う。(鹿島)
- 70代前半の女性。来た時は西も東も判らない人ばかりだったが、3,4年たって気心もやっと判るようになってきた。毎日午後、団欒の部屋で集まっておかしを食べたり色々話したりする。ここは坂が多くてよう外に出ない。買物の帰りはタクシーで千5,6百円かかる。若い人が親身になってくれる。ここは寒くてふもととは2、3度違いますね。エスカレータがつく予定だったんですが。棟が多く、迷う人が居ますね。1時スロープに目印代わりにリボンがつけられていましたよ、と様々生活のお話を伺う。(矢野、森、中山)
- 「ボランティアという言葉は嫌いや」と云われる60台後半、ご主人と二人暮しのお母さんと話し込む。「奉仕と云う事でしょ?」と実は奉仕活動40年以上の由。今は料理や人形劇を障害者向けにやってもう13年になるとのこと。仮設に1年、3年目にここが当たって移り住む。東須磨で被災。「ボランティアはやっぱり好きでやらなくちゃね。楽しくなければ続けられないですよ」とボランティアの大先輩からとても勉強になる話を伺う。(猪上、華山)
- 70代女性、一人暮し。「3年前ここへ来てから主人が亡くなりました。その後気分が悪くなって医者に行くと、脳梗塞の疑いがあると言われました。一人暮らしなのでやはり気になります。。だんだん目も悪くなって、字を読むのがおっくうになる。」「この辺は地震の前は山で、野草がたくさんあった。主人は野原を歩くのが好きだからよく花を取ってきたりして居た。3〜40年くらい前には洞窟みたいなものもあった。ここがあたったときには昔のイメージがやっぱりあったが、来て見ると住宅が建っていてすっかり変わっていた。」「震災後に役所に行ったらひどいこともあったよ。舞子の全壊したマンションの更地になったところの写真を撮って来いと言われた。その時は大阪に居る姉の家に住んでいたが、カメラもよう扱えへんので、使い捨てのを買うてきて何とかしたが、大変やった…・。今は何とか元気なので、生きて行くしかないね。」とお話を伺う。(猪上、華山)
- 70代女性、一人暮し。車椅子は下りが怖い。男の人でも大変そう。坂の上にシルバーハイツというのもおかしいのでは? ここに来た時には杖で歩いていたが今は車椅子で。震災の時に腰を痛めた。前の市の住宅は3階でエレベーターなし。階段の上がり下がりで苦労した。「外出の時に車椅子を押してくれるボランティアは居ますか? と聞かれる。「年取るのっていややなー。若いときは考えていなかったけれど。わたしらは戦争の時が青春時代やったな。いま、英語側がわからへんからふじゅうよ。学校でもノートなんて言葉使えずに雑記帳といっていた。」「空襲で家つぶれて、地震で家つぶれて、長生きしたくないな。いややなー」といいながら「最近は国会にはまっている」と言われる笑顔の素適なお母さん。お話し中に「急ぎますか?」と問われ、「いいえー、他の人も廻っていますから」というと「じゃあ紅茶でも入れましょうかねー」とニコニコ暖かい1時間の訪問でした。(佐藤、長船)
2002年3月23日
[復興住宅]
- 60代後半、女性一人暮し。65才まではヘルパーをしていた。私は被災者ではない。ポーアイの公団に住んでいたが建物は壊れなかった。公団は家賃がどんどん高くなっていったので、空家募集をしていたここへ申し込んで当たった。運が良かったわ。この階の人とは、震災の話しは会わないが仲良くやってます。同じ60代や70代のひとなど、お子さんなどもいらっしゃるお宅もあってにぎやかです。ゴミ掃除当番をやらない人もいるけど、やろうという人だけでやっている。無理に誘うわけにもいかへんし。うちも娘がたまに来るけど、一人は気楽ですや。孫とか毎日顔を合すのは嫌になるときもある。たまに会うのが良い。年金制度や結婚についてなど訪問者に色々ご助言いただいた。(猪上、伊東、永田)
- 80代女性一人暮し。何を話せば良いの?と最初は困惑気味。「もう年をとったら耳がねー」「仮設住宅に年寄りばかり残して、と市に怒ってね」「シルバー言われてもね〜みじめな気がしてね、自分がやで?」などとお話を伺います。西日が当たると夏はしんどくて家の中におられへん。マンション自体では交流が無いから、自分から食事会などへ行かねば。号棟ごと、年齢ごとの付き合いだけでという考えもある。また葬式、また葬式と亡くなった方が多いです。LSAの人が昔は良く回ってきていたが最近はあまり来なくなったけれど、廊下を歩くだけでほとんど意味が無いような・・。12時間認知されないと音が鳴るシステムがあるけれど、戸を閉めてしまうと聞こえない。そしてあの坂がきつい。上の方の公園でラジオ体操していたけれど、ここから言って田のは私だけですわ。野菜の売りも来るけれど丸ごと買わねばならないので腐ってしまう。スーパーなどあれば半切り四つ切でも売ってるのに。地震の前に犬がなんや変な泣き声でねー。自分の家は屋根が無くなったぐらいでどうってこと無いと思ってたけれど、あたりを見回すと2階建てがガターッと崩れてて怖かったワ。地割れも見てこんなんなるンやねーと怖かった。今より、仮設住宅の時の方が楽しかった。晩御飯食べるのに5,6人集まってねー。仮設の友達は未だにお花見行こうとか花買いに行こうとか誘われて、いこかーとかあんまり断らない。ここの方が寂しい。(佐藤、小林)
- 60代後半女性一人暮し。避難所で1ヶ月ほど暮らし、息子に迎えに来てもらって関東に半年住んでいたけれど、その間、仮設住宅の抽選の為に5回くらい神戸との間を往復した。交通費が無くて解約しやすい生命保険を解約して交通費にしました。仮設に入ってから大手術を行い、今思うとあの頃はぎょうさん金を使った。百万円くらいの義援金はすぐにパーですわ。これからも交通費と医療費が一番の問題です。他の棟などで、震災に逢っていない人も入って来たりして物の考え方など違うのでやりにくい、というが、ひがみと違う? 自分は病気や安否の話などする。なんやかんやあって1週間が短い。「ねえ、どうにかこうにか多かれ少なかれ病気してね、震災に遭ってみな一緒なんだけど。贅沢は言われへん。」(佐藤、小林)
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