お話し伺い訪問メモより
2002年7月13日
[復興住宅]
- お留守の家の玄関先に、子供が作った七夕飾りの短冊があった。子供の字で「おかあさんの しごとのおかねが はいりますように」と書かれていた。どんな夢や願いより、かなえてあげたい現実を、雄弁に訴えていた。是非お話ししたかったが留守で残念だった。(増田、原田)
- 50代女性。わざわざ出てこられてみんなと立ち話。ここは坂がきついから、重い荷物を持って上がって大変です。車で回ってくれるって、そんなしてもらったらみんな喜ぶと思うねん。でも只やったらみな気を使う思うわ。ガソリン代ぐらい取ったら? 何かあれば輪が出来るでしょ、そしたらちょっとは希望が見えてくるじゃないですか。私もここに入ってから「うつ」になったんですよ。日々のくらしのつらさは精神的なことになって行くからね。ここの男の人たいへんよ。女の人は子供産んだエネルギーで頑張っているけど。人間関係もそうですし、難しいわね。市はここに押し込んどいて、入ったらしまい。ガイコツのまんまほったらかし、と言う状態で亡くなっているのも独り者。「なんぼ外から立派に見えても、住んで見ないと判らない。ボロでも人情がある方がよっぽど良い。」「寝たきりのおばあちゃんも、ドアは開けっぱなしで寂しいので声をかけて欲しい。みんなが「どないや」と声をかけてくれるように、自分もドアを開けておきたいけれど、変な人が来るので開けられない。変なセールスとか万引きする人とか。安心できない。気を許せる人がこの中に何人居るか? 自分を守る姿勢になる。部屋の中にこもった状態になり、「うつ」になって精神科へ。人間は人と一緒に笑ったりするものだ。地震のときにいっしょに助け合ったことを忘れている。来週から台風があり、買物が出来ない。冷蔵庫の中が減ってくる不安。家に居るとおかしくなる。「外に出るきっかけが必要だ!」。知らない人でも「いってらっしゃい」と言ってくれる環境が必要。まず、あいさつから。ご馳走より嬉しい。「お父さんおつかれ」の一言で、一日のつかれがとれる。震災の後、地元の中学でボランティアをしていた。そのとき神経のせいで胃がやられた。何がいちばん生きて行く上で必要かの原点がそこにあった。人と人との触れ合いがあれば、何がなくても生きて行ける。動物がいちばん判っている。出ていった猫が2度と戻らなかった。人間と違ってストレスのコントロールが出来ないから、野良になってしまう。ここに来て2年ちょっとだが、時間がたってくると調子が狂う人が多くなる。ドンドン落ち込んでくる。ここを姥捨て山なんて言い方する人も居る。ほんとにここは、山登りみたいな場所だ。(原田、長船、華山、坂本、矢野)
2002年7月27日
[復興住宅]
- 四年間の仮設住宅暮らしで身体を壊し、今も失業状態。被災地の長田から一番辺鄙な岩岡仮設住宅へいきなり飛ばされた。通勤交通費で2日分の日給が飛ぶ。朝5時に起きて会社にゆき、残業して帰れば夜中。寝るのは午前様という通勤片道2.5時間の生活は、だれでも身体壊すわ。食べてゆく為にはせなあかん、と4年も仮設から通った。神戸市ももうちょっと考えてもらえればと悔やまれる。と仮設被害の事例を話された。地元に帰りたかったけれどいつも一人もんは最後ですよー。この住宅は坂がかなりハードや。私らでもバテルのに年寄りは大変や。下のローソンで、高くつくけれど買いはるみたいや。いまはボチボチ、何もぜいたくしていないので大丈夫、と語る30代一人暮し女性と話し込み。(佐沢、坂本、長船)
- 「話すことは無い、と言おうと思ってたけど……」と、30代一人暮し男性から約1時間のお話しを伺う。「市住へ申し込んでも外れるばかりでホンマ最後でしたわ。」と四年間の長すぎた仮設住宅暮らしを振り返る。「仕事? それどころや無い。仮設の集会所で近所の人と協力し合って、まず住むところから。仮設の末期にはみんな出ていった建物、壊し始めるから真っ暗で寂しくなって。ボランティアの人は良く来てくれたけど。一人で仮設にいるのもつらく、半分以上崩れかけのアパートに戻ったりしたが怖く、夜寝られず、何時でも逃げられるように戸も開けて寝た。冬寒くても我慢した。仮設はプレハブやから、暑い、寒い、虫が家に入ってくるから悩まされた。訳のわからん動物の呼吸とか聞こえるし。神戸は災害も無く良いところやなあ、と思っていたのに。高速が倒れ、多久さんの人も亡くなって。知ってる人も亡くなったが、鷹取のあたりは地獄絵図のようなものだった。爆弾が落されたような。水に困って、水があんなに大事なもんやとは思わなかった。水、やね。今、忘れかけているけど。食料は配給が多くて困らなかった。避難所には余るほど回ってきた。全国の人々の助けはありがたかったですね。壁が壊れ、TVが倒れ、ガスが漏れ始め、やばい、と思った。アパートの1階で、ラジオを一日中流し、ローソクの火、死者の名前を流しつづけ。暗い雰囲気だった。仮設から出るのに時間がかかりすぎた。4年という時間ね。人間が住むような環境じゃなかったしね。行政がもっとシッカリしてくれたら、が唯一の不満。「いざというとき、若い人があとまわしになるということは知っててほしい…。でも、一人でもいられないということも判りました。」「昔住んでたまち、知ってる道に、違う建物があるのは寂しいですね」(坂本、長船、佐沢)
- 70代後半の女性、一人暮し。名谷は遠いので近くのセンターへ買物に行く。毎日はしんどいので3日分ぐらいを纏め買い。今でも、足が痛くなる事があるが、リュックサックを背負ってゆけば大丈夫。「坂はきついが、自分でできる事W他人の世話になると、自分で出来なくなるのが早まりそうで怖い。どうしてもという時は、買物宅配サービスの利用を考えている。健康状態は、病院に通院しているが腰痛、リハビリ、血圧のみ。仮設にいた時の方が、協力やコミュニケーションが取れていて良かった。救急車が止まっても、止まった事は判ってもどこに止まったのかわからないのは不安。(永井、籠嶋、猪上)
- 女の子と若いおかあさん。長田で被災。仮設に入らず親戚の家を転々として、子供と一緒にここに家族で入った。買物が不便。車が無かったらどこも行けない。子供の学校が遠いので、小学校や中学校に入った時が大変。それまでここにいるかどうか……、と約20分の立ち話しを伺う。(永井、籠嶋、猪上)
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