お話し伺い訪問メモより
2002年9月14日
[復興住宅]
- 70代男性。ドアが少し開いており、奥さんとお孫さんらしき子供さんが迎えて下さる。すぐにご主人が見えて、「このチラシ(週ボラの予告チラシ)持ってますよ。いや、待ってたんです。」との事。玄関に椅子を並べ、ドアの前で長くお話させて頂く。まず気になっていることをすぐに話されて、すぐに本題へ。「僕が1番気にしてるのは、ここ(ベルデ)全部閉ざしてしまうでしょ。ここ入って、1番気にかかるのは、この閉鎖された空気なんです。やっぱりね、毎日暮らすんやし、何ていうのか・・、心豊かに生きたいですよね。それを営むために、何が出来るんかっていうのがね。」「僕は行政に迷惑かけたないし・・。仮設にも入ってません。長田高校の裏っかわに自宅あって、そこで被災したけど、自宅に住み続けましたよ。自分で出来る所まではやらなあかんし、どーしても自分の力でやれへん事は行政に頼まなしゃあないけど。その辺は、(ここの)皆さんと考え方、違うかもしれないけど・・。」「ここはね・・、ここ入って、隣近所でも閉ざしてしまうわね。うちは、家内元気やし、まだそんな心配はしてへんけど、この階だけでも5人は高齢者で、お一人ですね。」孤独死の話もいくつも聞く、あまりおっしゃりたくなさそうでしたが、自殺なども・・など。やはり、集会所でも色々と、このベルデの住民同士の交流の足掛けになればと催しはしているそうですが、、「お世話役さんらも大層頑張ってはって、ボランティアも来る。けど、そこまでして頑張って、キリキリ頑張り尽くす事なんか?とも、聞きたいよ。この棟だけでも180軒あります。いっぺんにそんなん、集会所一つでまとまらない。集会も参加したけど、あっちゃこっちゃからバラバラに意見が出て、全くまとまらん。」ゴミも、生ゴミを適当に捨てるなど、迷惑なことも起きている。ご主人がこの棟だけでもと見張りなどし、少しはましになったが、自分ひとりの力では限界がある、とおっしゃられる。「僕はね、前に出てやれへんから・・。色々言うたりはしたんです。会長さんとかにね。この階とかも、結構空室とかあって。他の階にもあるみたいですわ。せやから、そこ借りて、この階の人らだけで、集まってボヘーって話すだけでいいですやん。構えた催しもアレやし、ましてあんな下の集会所なんて行く気にならんやろ。そういう事をしたい!と、言ってみた事あるんです。けど、市の許可も下りんし、あかんですって言われてね・・。180軒、いっぺんにまとめるんは、無理ですよ!」「僕が思うんは、この階、この階、あの階・・と、一つの階ごとに、空室とか使てね、1階ずつまとまりを作っていけば、ええんやないか?と。そううしたら、それをまとめてって、この棟でまとまるってこと出来るんじゃないか?と思うんです。」「けっこう知り合って話ししてた近所のおばさんが、数日前までふつーに話してたのに、葬式やってて、どしたん?って聞いたら、いや弟亡くなって・・て言わはるから・・。びっくりした。普通、なんかあったとか、調子いいとか悪いとか、言って歩きはせんわなあ(苦笑)。自然に伝わるでしょ。それをね、なんっとかして、ホンマに作っていかんと!」「でね、なんか皆さん色々回ってはるみたいやし、ご意見あったら聞きたい!と思ってたんですよ。前はね、ボランティアは全然判らなくて、一度大学のボランティアの講義を見た事があるんやけど、そこで、ボランティアは、ただただ相手の為に尽くしたりすることだとお聞きして、凄いもんやなあ・・と。正直ボランティアの精神は僕はよく判らんんのですよ。なんやら申し訳ないし・・。けどね、あんたらんとこは週末だけでしょ? 僕は、ボランティアってそんなもんやと思うんです。やからあんたさんらのとこ興味持って、待っとったんです。色んな仮設やら住宅とか見てきはったんやったら、なんかええ意見ないかと。ぜひお話したくて。」震災直後、週ボラ発足時からほぼずっと来ているベテランさんや、代表との話し合いもおすすめし、奥さんに頂いたアイスコーヒーを頂きながら、お話をした。訪問先からのアプローチは珍しくびっくりした。このベルデへの熱意や、年代に見えないお若さ、気力、自立した精神を強く持っていらして、連絡先もお教えいただき、ぜひもう一度来てください、連絡お願いしますとのこと。(坂本、増田、中山)
- 80代、女性。お一人暮らし。「ま、時間はあたし一人やし、別に構わないけど。あがって貰いましょか?」と、上がりこみさせて頂いた。はじめのうちは、日常生活についてお伺いした。「ま、買い物大変ですけど、下の人と気分のええときだけ行こかー言うてます。医者は内科とか、まあ色々ね。桃山台とか、つつじヶ丘のちこで、買い物して帰ったりしてます。ベルデに来てあくる年、ギックリ腰してから往生してますねん。今も腰はうまいこといきませんわ。」お話しつつ、お茶を入れて下さり、「ああ、本当におかまいなく!」と言うと、「おかまいせー言われても出来ません(笑)」と笑って下さる。長田の長屋のある、ご本人曰く、「少し柄の悪いとこ」で被災、何も持たずに出た。「屋根はストンといって(壊れて)、中身は大丈夫だったけど、あきませんわ。ま、もう戻りたないし。ここ入るまでは、西神第7仮設にあしかけ5年おった。皆でいっぺんにここ入ってね。やからこのへんはよう顔なじみばっかりやけど。あたし、人とあんまり関わらないですから、なじみでも名前知らんのですよ。」「ベルデもねえ、いっぺん皆で見学来た時は、うわーっ、入りたないねえ、て皆で言うてたけど、ここしかないし。」お一人暮らしされているんですか?とお聞きすると、「あたしは、仮設の時からもずっと一人。まあ、色々あったからね・・。」お部屋には仏壇もあり、ご主人やお母様もすでに御亡くなりになっているとの事。「家事とかは、やってますけど、デイサービスから一人、週にいっぺん来てもらってます。ほんまはもっとやって欲しいけど、高いし・・。ちょっと掃除してもらってるだけですけど。要介護とかあんなん、私よう知りませんねん。下の人が皆してくれるから(笑)今になって、ようやく杖使うようになって。転んだわけやなく、なんかやっぱり足痛なってきてね。足と一緒に腰まで痛なってきて、背も曲がってみるみる小さなって。はよお参りけえへんかな思うわ。誰も訪ねてけえへんし、親戚も来ないし。私は貰われてきた子やから、兄弟とも遊んだ事なかったし。」ここから、人生の経験、ご苦労をお聞きする。「19の時に母連れて一緒に働て。もう戦前の話ですわね。働くのは長いこと、26年間神戸弁護士会に勤めて。62で辞めて、、皆ひきとめてくれたし、もっと働くつもりやったけど、まあね。結婚もねえ、30代で結婚して、結婚して17年目に主人と死別したから。母は主人より前に亡くなって。主人のお母さん、姑養っていかなあかんと思って、必死でやりました。長かったけど・・。1番苦労したけど、その時が1番楽しかったな。今、一人になってやっと判ったわ。自分の苦労というものが。私という人間がね。何て言うのか、誰かおってくれたらええなと思う事もありますけど、ま、誰かおっても気いもむし、私こんなんやからすぐ喧嘩するしね(苦笑)。集まりとかも参加しませんわ。下の人がおる時だけね。下の人しっかりしてます、私より。90ですよ。すごいですよ、私より年上で、負けますわ。負けんように、思ても、もう駄目ですわ(笑)。なんや、仮設のときから一緒やから。さっき話したけど、皆でいっぺんにここ来たからね。離れてしもたら嫌やな思てたら、たまったま真下と真上でね。えらい、縁あるんやなあ言うて。書類とかもみなしてくれますねん。もう計算とかあんなややこしいのよう出来へんのに、ようやってくれて、あんた、自分でやりやー言いながらね。はよどないかなりたい、お参りけえへんかな、言うたら怒られますねん(笑)」と、とても親しくお話されている様子。「あたしは話下手でね。話とったら、長いことの苦労が、愚痴になって出るし。人に嫌われたらあかん思て、愚痴言われへんから話されへん。」と伺い、気になった。お話凄くお上手ですよ、と言うと、少しだけ喜んで下さった。「まあ、どなたでも苦労してはりますわね、戦後は。それもあるしね。」家具などは、最近になってやっと揃った、はじめのうちは本当に殺風景やった、とおっしゃり、お部屋のあちこちに手芸品が。「1番初めに行ったデイサービスんとこでやってた手芸講座に参加して、それからですわ。今もそこに週何回か行ってます。こんなんが、一つの気分転換やね。」「まあ、もうホンマ下の人にお世話になってて、あんた、逝かんといてよー、長生きしてよー、って、年寄りつかまえて言ってます(笑)。」口調はしっかりされていて、サバサバとお話されていますが、お話するうちにたくさんのご苦労をお伺いし、もっと時間をとってお話したいところでした。(坂本、増田、中山)
- 80代ご夫婦。奥さんに玄関で立ってお伺い。あまりつっこんだお話はないし、したくないといったご様子でしたので、日常生活について伺う。「今はまだねえ、歩けるけど買い物がねえ、来年にもなったら体もアレやろうし・・。被災?東灘でね。」と、先のことが心配のご様子。ちょっとカーについて、知ってはります?と伺うと、「ああ、あれね、私等とか、あと、他にもけっこういはると思うけど、時間帯が噛み合わんのよ。買い物午前中に済ましてまいたいから、午前の終わりにあるといいな。すごくいいと思うし、ぜひ、時間帯を見て欲しい。」とご意見が。嬉しく検討する。「とにかく、今はエレベーターとか使てなんとか降りたりして行ってるけど、来年とか心配で。他の人らも、足とかあかん人辛いやろし・・。」「今の所、生協も来てくれてるしね、まだええわ。出る時は、買い物は名谷。しかし、神戸来てから、買い物にバス乗るなんて初めてです(笑)。バスの乗り降りも大変。身い重うてねえ。でも、買い物は毎日、運動で行ってます。家におっても・・、ねえ・・。近所付き合い・・はないけど、バス停で皆話してますよ。家族またいなんや、声かけあって、調子どやとか、おはよーとかねえ。どこの棟とかもない。名前は知らないでも、顔見たら判る、っていうやつでね。病院は、月に2回行ってます。血圧高くて、ちょっと心臓悪い。」「ベルデ来るまでは、娘んところにおって、仮設は入らなかったです。ここも出来てすぐ入って・・。近所に娘もいるし、ま、もうなんにもチラシ(予告チラシと一緒にお入れした支援シート)に書くことないわあ(笑)」と、最近のご様子を主に伺った。特に困りごともないので、買い物だけで、ちょっとカーについてご意見を貰えた。(坂本、増田、中山)
- 中年の女性。お休みの所だったようです。「ああ、ああ。なんか(予告チラシ)入っとったね。」と、少しだけお話して下さった。「まだここ入って、間がないからね。一年にもならへんけど。」生活のご不便、お買い物などについて、やはりお伺いする。「まー、この辺ないもんね。遠いし・・。私まだ行った事ないねん。病院通い位ね。買い物は、主人が仕事帰り名谷で行ってくれてます。どこが悪いわけやないけど、病院は月1回。そこの国立にね。」「ま、こんなもんかなあ・・。」お休みのところ、失礼しました、と立ち去りました。申し訳なかったですが、少しでもお話をしてくださり、嬉しかった、(坂本、増田、中山)
- 70代男性。スーパーファミコンを置いておられて、遊んだりしている。3つカセットを差し出して、「この3つあれば、一日つぶせる」と言われ、一時間ほど、ぷよぷよなどのゲームを一緒にさせて頂く。「久々に楽しかったですわ」と、奥さんとも一緒にゲーム。「家内の方が強い」などおっしゃられ、こちらまで楽しませて頂いたが、とても和やかにお話する。「気を使ってしまうが、今日は久々に楽しかったですわ」と言われる。パソコンもあったが、「横文字ばかりで目的が判りませんわ」との事。楽しい時間を過ごしたところで、本格的にお話されはじめ、こちらもお伺いした。「地獄を見てきてますから・・。」昭和9年の阪神大水害、昭和14年の灘中の火事。用務員が放火した。この時も近くにいて、大きな家事を経験。昭和20年の空襲。この時も、神戸製鋼で働いていた。この頃が1番しんどかった、とおっしゃられる。15〜16歳。学生で働いていた。その後は、大工をしながらすごす。木造の大工。「料理もしますよ。最初のうちは恥ずかしかったが、今は味噌汁、肉じゃがはできます。」など、話される。震災は、東灘で被災した。ここ(ベルデ)までがしんどかった。1999年入居、東灘に戻りたくても当たらなかったため、仕方なくここに来た。仮設は六甲アイランド第3住宅に4年以上いたが、3年が限度。4年めはしんどかった。皆当たって退去、空家になって・・。精神的な辛さ、不安など。族も来るし、辛かった。最後まで居たので。夜が怖く、警察も巡回されていた。「(仮設)最後の1年半はこたえた。胃がんで入院し、退院先が、このベルデでした。今はけっこうにくらしています。」と言われる。また、魚崎の震災8時間後の火災は、ライターが原因で、ガスの蔓延している被災地で、シュボッ、と、つけたら最後や、ライターつけた人はそら、避難所でも顔向け出来ないわ、と言われる。これは、一つの教訓やった、と言われた。長く上がりこみさせていただき、本当に沢山の経験を伺えた。(長船、矢野)
- 70代、女性。戸口にて少し伺う。「こうして居れる所に入れて頂いて、色んな方が訪ねてきて下さるので有難いです。元気なだけがとりえで。足腰の不自由は年ですから仕方ないが、諦めずに頑張ってます。」ちょっとカーについてお伺いすると、「乗せて貰ったときは有難いですが、一応エレベーターも充実していて不自由までは感じませんでした。私にとっては、ものすごく便利でいいところです。」以前(震災前)は、中央区(元町3丁目)なので駅も近く、平坦な道で便利だったが、緑がなかったので、年いってからは、こういう静かなところもいいです、との事。ま、車の音がうるさいのは少し困るが・・。とおっしゃられる。震災の時は自宅が全壊し、垂水区城が丘のアパートを経て丸5年でやっとここが当たった。仮設には行っていない。「有難いところに住ませて貰ってます」との事。(長船、矢野)
- 70代男性、奥さんと二人暮し。兵庫中学のそば、かみさわにて被災。4階建、集合住宅1F部分つぶれて全壊。2Fの踊り場より脱出。現在、跡地はタクシーの車庫になっているとの事。被災後は春日台の仮設へ。今より、買い物の便など、便利がよかった。現在のベルデ名谷には、H11の5月に入居され、建物と空気が良くて、そこは嬉しいとおっしゃられた。やはり、買い物の便利は悪く、ちょっとカーは利用しました、との事。是非また続けて下さい、と言われる。騒音については苦言。うるさい車が夜間多く、眠れないこともあり、大変迷惑している、と他の住宅でもお伺いしたお話が・・。健康については、おかげさまでまったく問題ないとの事。(籠嶋、井上、阪野)
- 80代。神戸湊川付近にて被災、震災で家は全壊し、下敷きになった、とお聞きする。ベルデ名谷には、完成待ちで入居。この階は、親切な人が多く、不便を感じない。隣の人が仕事から帰ってくると、夕方必ず訪問してくれる。近隣の人が買い物もついでだと言って行って来てくれるなどもあり、近隣の人がよく着てくれるので、寂しくもない。などなど、驚くほど快適だと言われ、びっくりしながら、嬉しい近隣関係のようで良かった、と思えた。(籠嶋、井上、阪野)
- 80代。長田区大谷町にて被災後、桃山台の次男のマンションへ。健康面、金銭面とも全く困っていない。本を読んだり書いたり、精神的にも快適との事。買い物などは?とお伺いすると、「全く困っていませんよ」「ほら、ご覧の通り」と、元気にハキハキ歩かれました。とても80代どは思えない程の歩調にびっくり。息子さんがお二人いらっしゃって、近くにいるので安心、一緒に暮らさないかと誘われており、自分は恵まれているとのお話。(籠嶋、井上、阪野)
- 70代男性。奥様と二人暮らし。長時間お伺いする。東灘で被災され、自宅は全壊。被災後、深江の仮設住宅へ。震災時、強い縦ゆれを感じて外を見ると、隣のガレージが倒壊、自宅もその数分後に倒壊した、とお話され、その時の写真を見せていただいた。震災直後に起こった火災は、プロパンガスを原因と見ており、その後、ガスに対して恐怖心がついた、とおっしゃられる。ベルデへはH11の5月に仮設より入居したが、便利が悪く、車を購入。名谷まで週3回位まで出ている、とのこと。一つ、困っていることがあり、夜間改造車の集団と思われる騒音がうるさく、眠れない事があるとの話。この集合住宅のこの棟の共通的な事項だと思われる。伊丹と名古屋に息子さんとお孫さんがいらっしゃるとのこと。集合住宅にありがちな問題として、犬を飼っている人がいて、フンの始末が悪い、なども。健康面においては、脳の毛細血管の血がにじみ出て、救急車で運ばれた事があるが、それ以外では健康だ、とおっしゃられる。昭和初期の大不況、昭和13年の神戸大水害、満州事変に続く大東亜戦争、昭和20年の神戸大空襲、学徒動員、そして阪神淡路大震災と、とにかく大変な時代を生きてきた、と人生経験を伺った。(籠嶋、井上、阪野)
- 90代。長田で被災された。2月頃心臓のペースメーカーを手術して入れ、手術結果は良好との事。妹さんがお一人いらっしゃるとか・・。夏ばてで入院したが、先生に「何ともないよ、元気出しなよ」と言われました、とのこと。「一人暮らしなので震災後は仮設だったけれど、復興住宅の方がいいだろうと言われてここに越してきました、良かったと思います」との事。絵がお好きとのことで、以前書いた絵を見せて頂いた。若い頃はそごうで手芸を教えていた、とのこと。話題が多く、長時間お話できて、色々教えて貰うことが多く、お年に見えないほどしっかりされた方。逆にこちらが元気づけられる。趣味を多く持っていらっしゃることが元気の元かと思った。(小波本、北山、鍋田)
- 長田で被災された方、声帯の手術をされたそうで声が出にくい。土地があるので長田に近い将来帰りたい、とおっしゃられる。(小波本、北山、鍋田)
- 90代。「特にないですけど・・」と言いつつ、お話を伺えた。中央区で被災。近所の友達といい関係にある。バス停までの距離が長く、年寄りには買い物など疲れる。坂がきついのでなんとかならないかと思うことがある、とおっしゃられる。手芸が好き、とお伺いする。一時間近くお話が弾み、ボランティアに話を聞いてもらえてよかった、と言って下さった。足(ひざ)が痛い以外、体は元気。話し方もしっかりされていらっしゃいました。(小波本、北山、鍋田)
- 80代、70代ご夫婦。「17時と聞いていたんで、待ってたんや」と。この日は多くお話を伺えて、お待たせしてしまった。申し訳なかった。六甲で被災され、西神第7仮設で、180世帯の役員をしていた。書道と卓球指導員をしている。夫婦とも元気で、週ボラ来てくれて嬉しい、もっと早く来てほしかった、と言われました。。話し振りもはっきりしていて、とてもお元気なご様子。住宅内の世話を沢山していらっしゃって、それが元気の元のようでした。(小波本、北山、鍋田)
- 70代、80代のご姉妹。妹さんにお話を伺う。板宿にて被災。全焼して、そこは倉庫になっている。かしのだいの仮設へ。ちょっとカーは2回利用した。公園もあり、空気、風通しがいい。名谷まで出て行くのは、大変との事。(籠嶋、井上、阪野)
- 「早いもので入居してより2年5ヶ月が過ぎました。姉が足を悪くして車椅子で大変でした。今は杖を付いて少し歩ける様になり皆様に親切にしてもらってやっと今心より安心して居ます。春のウグイスの声で日を過ごし空気も良い所です。この前の坂の車2回お世話に成りました。ありがとう御座いました。」(本人自筆)
2002年9月28日
[復興住宅]
- 60代男性、およびその方のお友達。大学卒業後、服の縫製の仕事をしていた。今でも現役で仕事は結構回ってくる。妻から年金生活を勧められているが、辞めるつもりはないとのこと。震災のことよりも、専ら人生論を語っていただきました。訪れたお友達とで見事なボケとツッコミの会話を行ない、その中にお互いの思いやりを感じました。お友達は戦時中に負傷した跡が残り身体不自由。最近はアルコール中毒気味でと語っておられた。(籠嶋 木下 佐藤)
- 80代後半女性。長田区で被災。住居は全壊した。仮設住宅は本多聞に入居していた。仮設住宅入居者優先で今の住宅に当たった。買い物は、名谷、新長田、湊川で買っている。近所の店はものが高いのであまり利用しない。夫は震災前に逝去。現在は遺族年金と自分の年金で生活している。4人の子どもは別居しているものの、週3回程度訪問して食事などをしていってくれるので、あまり寂しくはない。ただ、近所づきあいは会ったときの挨拶程度。現在住んでいる所に関しては、表だった不満は特にない。年齢の割には非常に健康そうなお話しを伺う。(籠嶋 木下 佐藤)
- 60代から70代ご夫婦 被災地区:長田区。奥さんはおくから声がしていたので、そちらにおられた様子。ひよどり台の仮設住宅に入居していた。胃と腰が悪く、奥さんは病気持ち。喫煙をなかなか止められない。仮設住宅に住んでいた当時の友人との食事会が週1回あって参加しているが、現住所での食事会は行ったことがない。お年寄りはこの様なところに放り込まれたら寂しいと思う。坂道に動く歩道を造る、と役所が言っていた。足の悪い人には大変なところだと思う。ちょっとカー、100円は高い。役所はつまらないところに金をかけずに、ちょっとカーみたいなものに金を出せば良いと思う。署名を集めて助成金を出してもらえば良いのではないか。近くにスーパーマーケットが出来たらいいのに。野菜を売りに来るけど値段が高い。ここは不便。生まれてこの方ずっと新長田で暮らしていた。駅の構内放送が聞こえるくらいの所だった。火災には遭わなかった。ちょっとカーに力を注いでほしい。(猪上 佐藤 西岡)
- 高齢の女性。いきなりドアが開き、「ハイハイ、何ですか」と。「週末ボランティアと申します。このあたりを回らせてもらっていて、お話をお伺いしているんですが。先週、チラシを入れさせていただいていたものです」「あー何か入ってましたねえ。まあ、足が悪いけど、何でも一人でやるようにしてますわ。そうしないとダメになるし。だから、何かしてもらったりとかは結構ですよ。」「お話をお伺いして回っているボランティアではないんですよ」「あー、まあ、お話と言っても、もう話すのもアレやしねえ、ここ(頭を指でトントンと指すしぐさで)悪いから、もうしんどうて(笑)」と、明朗に笑っておられた。とても明るい方。「まあ、寂しいなあ、と思うこともありますけどね。まあご近所言うてもこのあたりは男の人ばかりやし、お年寄りは、だって、同じような年代の人でも結構年が離れてるしねえ。ま、ここの自治会長さんも様子を見に来てくれたりしてますし、子どももちょくちょくのぞきに来てくれたりしてますから今のところ、大丈夫です。」「あ、そうですか。また、是非お話をお聞かせください」「はい、またお世話になるかもしれませんが。ありがとう」と、高齢にもかかわらずはっきりした口調の明るい感じのおかあさんでした。(北山 濱岸 坂本)
- 70代後半の女性、1人暮し。長田区にて被災。住んでいた長屋は全壊。駒ヶ林中学校で避難所生活を送っていた。避難所生活の途中で病院に入院をしていたご主人が肝硬変で亡くなられた。近隣の協力もあったため、近くの集会所で葬儀を出すことが出来たので助かった。最初は遺骨が帰っていくところもなく、困った。水も満足にない中の葬式だった。避難所には1ヶ月半程度いて、知人の紹介にて地元の貸家へ入居し、その後、伊川谷の仮設住宅へ入居し3年半ほど仮設住宅での生活をした。その後、神戸市の斡旋で西明石のマンションを経て平成11年5月からここに入居した。入居当時、被災した場所を訪ねたが区画整理の工事ばかりが行われており、当時の面影は全くなく寂しかった。現在、一人暮らしだが2人のお嬢さんが市内と明石に住んでいる。近いようで遠いが、月にそれぞれ2回ずつ程度来てくれる。買い物もその時にしてくれるので助かっているがここは魚介類、肉類についてちょっと購入したいと思ったときに購入できる場所がなく、不便は感じている。野菜については4棟の下に毎日来てくれる巡回の八百屋さん、ポストの前に火曜と木曜来てくれる巡回の八百屋さんで足りる。現在マクドナルドがある場所に本当はスーパーマーケットが出来ると良かったなあと今でも残念に思っているそうです。交友関係も広く、昔生計を立てていた洋裁、下の集会所でのカラオケ、と趣味も広く、毎朝6時半から行われている近くの公園でのラジオ体操に参加したり非常に充実した生活をしているご様子です。ちょっとカーの時は、熱かったために出歩かず、乗れなくてとても残念。友人によると、ちょっとカーは神戸新聞にものり、とてもありがたいと思い、有料だったとしても利用したい。周りも同様。出歩ける時間は、10時から13時。友人と一緒の時は食事を外で取ってから帰るので14時頃。ちょっとカーへの依頼を強く希望されていました。(井上 古澤 華山)
- 70代後半、女性一人暮らし 長田区で被災、平成11年5月入居。元の自宅は全壊。その後、西区の息子さんのマンションに3ヶ月間住み、その後垂水区の民間賃貸住宅(家賃4万円/月)に4年間住み、平成11年5月からここに入居し、現在に至る。収入は、現在では国民年金の約63万と息子さんからの仕送りのみ。貯金を取り崩している。そこから、介護保険料28225円と家賃9500円を出費している。上の子は西区に息子夫婦と孫2人、娘が滋賀県に夫婦と孫二人がいる。今まではほぼ健康だったが今年四月頃に高血圧症になり現在通院中。今住んでいるところには友人も沢山いて、グランドゴルフに週1〜2回、ストレッチ体操に月四回通っている。集会所である食事会は必ず毎回参加している。(井上 古澤 華山)
- 70代男性。入居は平成11年9月頃。「仮設住宅は西神の第5仮設にいた。週末ボランティアは当時も来たことがあった。3年前にここに入居。妹と一緒に住んでいる。私も妻を亡くしたし、妹も夫を昨年亡くした。」ここの住宅も今日、転入された若い方がいますね、と話したら、「ここも最初は老人ばかりで、仮設住宅から転居してきた人が入ってきたけど、老人は順番に亡くなっていく。10年か20年も経てば仮設住宅からの年寄りは少なくなって、普通の住宅へかわっていくんやないか。」「ここの坂は年寄りにはキツイわ。泣かされている。」とちょっとカーへの期待を語られました。(猪上 佐藤麻美子 西岡)
- 72歳男性、ひとり暮し。有馬の仮設住宅に2年ほど住んでいた。東須磨にあった自宅は震災の時に全壊。震災後はまず大阪の弟の家に少し住んでいたが、大阪に住んでいると申し込みが出来ないので仮設住宅に入居した。3,4年前に妻が一度有馬でガンの手術を受け、一度は良くなったものの、転移してまた再発。妻は9月のはじめに病院から帰ってきたが手遅れだったので亡くなってしまった。「有馬の仮設には最後までおって、まだか〜って言われて、まだやー言うてな」。娘が名谷にいて、たまに食事を持ってきてくれる。息子は頼りにならんし(出張で遠隔地に住んでいるため)「医師にはかかってないが、コロッと死にたいわ」と言われる。娘さんとかもおられるし、元気にまだ生きないとね、と励ましの言葉もちらほらとかけた。ここは「湿気が多くてなかなか抜けんね。日当たりは良いけど、朝日があたらない。西日ばっかり。建て方がほんま逆」と言われました。健康のため、この辺りをぶらぶら散歩。有馬は歩くところがいっぱいあったんやけど。買い物には車を使っているから困ってはいない。
(木下 籠嶋 佐藤)
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