お話し伺い訪問メモより
2003年3月8日
[復興住宅]
- 50代男性一人暮し。垂水区で被災、車椅子でローソンに行ったり、週2回、コープで食料等を買ってくる。被災者ではなく障害者として入居。以前は、多聞に住んでおられ、2年前に入居、抽選で6回申し込んでやっと当たった。部屋の移動は四つんばい、室内の手すりで移動しやすい。よく、多聞のデイサービスを利用している。そこは、200人くらいいる大きな施設で、バス(リフト付き)で迎えにきてくれる。須磨パティオまで行くにも距離がある。車椅子でインターチェンジそばのミドリ電化にも行くが、下り坂が多く、地形を見て車椅子等を操作しなければならない等、苦労が多い、「仕事していたらともかく、じっとしているとなかなか腹がすかない」と当日は食事をしていらっしゃらなかった。10年前位から、公団住宅の3階で一人暮らし。3階だとエレベータがなく、1年くらい外出できず、ヘルパーが見るに見かねて、外出できたとのこと。電動車椅子を神戸市から支給されていたが、公団では使い物にならなかった。今では格段に外出がしやすくなった。今は、ローソンまででも外出することができるようになった。以前は、トラックの運転手をしており、野菜や魚を10tの冷凍車で運んでいた。月3回くらいしか神戸に帰れず、月7000〜8000km走る毎日だったとのこと。一人も案外気楽でいい、自分が腹減ったら飯を食ったらいいし、朝風呂にも入ったりする。子供らに聞かれると「昔はトラックの運転手、今は車椅子の運転手」と答えるようにしている。(長船、井上、林、増田)
- 70代女性。淡路の出身、昔は港町だったが、橋ができてすっかり変わってしまった。三年前ここに引っ越してきた。それまでは西神の仮設住宅だった。世間話をすることも少なくなり、人の世話をすること挨拶することなどが仮設住宅よりも少なり淋しくなった。「ここはマンションではない死に場所や」とおっしゃる。春がきたらごみが増えた。掃除するのも自分ばかりだが、通りがかる人から、「毎日掃除大変ですね」と言われ、嬉しくなったことも。また、ごみを散らかす子供に注意したら逆切れされた。善意で注意しても、けしかけられるかも知れないから言えない。正月もこの住宅で過ごした。夏は、うちわと自然の風で過ごすようにしている。案外涼しい、虫やムカデがよく来る。くも膜下出血で体を悪くし、血圧の薬を飲みつづけないと血圧が上がってくる。(長船、井上、林、増田)
- 50代の女性、長田区で被災、自宅は全壊。命が助かっただけでも幸い、家族4人は無事、その年の8月まで、兵庫高校に避難し、それから、長田区役所に避難していた。仮設には入りたかったけど、入れなかった。商売にならないので民間の部屋を借りた。震災の時は、猫の手も借りたかったが、落ち着いたのはここ2、3年くらい。ここは、障害を持った人が多いので交流は少ないが、本人は、心配することはないというくらいお元気であった。(北山、佐藤、木下、西田)
- 70代 兵庫区の大倉山の上の方で被災、あの辺は古い家が多かったとのこと。一週間くらいは、つぶれた家にいた。家は全壊したが仮設には入らなかった。ここへきて2年しか経っていないが、足腰が悪く、買い物が不便である。現在は、習字をやっていて生きがいがあり、特別に心配することもないとのこと、お元気そうで安心した。(北山、佐藤、木下、西田)
- 80代女性、世話をしている息子さんが応対、ご主人とは死別しているとのこと。今は、24時間寝たきりでヘルパーさんを頼まれている。被災時は緑内症を患っており、地震の後遺症で、地震が起こる不安に襲われている。入浴を3人1組で行っているが、本人は目が見えず、昼夜の区別がつかない。以前は35kgだったが歯が抜けてしまい、ここ5年くらいは、チーズケーキしか食べていないので、25kgになってしまった。去年の秋頃から薬をあまるほどもらっている。ヘルパー等は、顔を覚えているが初対面の人は説明しなくてはいけない。以前は、加古川の養老院で、しばらく寝かされていたが、養老院から出たいと自宅へ。夜は、2〜3時間ごとに起きたり、寝たり、会話も耳元で交わすしかない。買い物は、週1回のまとめ買い。病気をしたら手術等ができないのでクーラー等が入れられない。食べものを食べていないので、食べ物を食べる夢をよく見るらしい。(坂本、猪上、篭嶋。豊田)
- 50代 長田区で被災、仮設で5年を過ごされる。現在、母親の世話をされている。ここに入られたのは、平成11年、長田の土地は売ってしまった。介護保険ができて大分便利になりました。寝たきりの母親がいるのになかなかここに当たらなくてつらかった。家賃は免除してもらっており、母の遺族年金で2人で何とか食べている状態。ヘルパーは週3回、12〜4時まで来てもらっている。環境が変わってしまったが、ここは、バリアフリーの設計となっており便利。1号棟と2号棟の方は、年がとっているのにスーパー等買い物が大変である。この階は、近所づきあいがまだ残っているので、うまくやっていけている。(坂本、猪上、篭嶋。豊田)
- 60代男性。耳が不自由になり、コックをされていたが転職、福祉施設に勤めておられたが、退職、やめて1年間、ケーブルテレビの放送を楽しんでいる。震災前に奥さまが亡くなり、耳が遠くなり、自分に自信がなくなってきた。しかし、自分の障害のことは、なかなか他人に伝わりにくいのではないかと思い、集会等に出る気もしない。扉に落書きをされたりしてつらい思いをされている。(坂本、猪上、篭嶋。豊田)
- 70代女性。西神の仮設住宅に住まい、ここに移ってきてから病気がちになっていた。長田区で被災、ご主人とは年金暮らし、働くところがないと国民年金がないので心細い。ご主人も大分前に脳梗塞をわずらった。買い物に行くのも大変である。(坂本、猪上、篭嶋。豊田)
- 30代女性。この棟は障害者専用の棟である。長男が知的障害をもたれていて、入居できるきっかけとなった。現在は歩行することが灘しいので、駐車場がこの棟は上にあり、車を使うのに不便である。(坂本、猪上、篭嶋。豊田)
2003年03月22日
[復興住宅]
- 50代男性、震災前から一人暮らし。中央区の借家で被災。内部障害+神経系の症状で2級の障害者。35歳の時には土方をやっていた。母親(震災後肺炎で2ヶ月入院したが,今は元気)が週1回訪ねてきてくれる。1日3回毎食後の精神安定剤と睡眠導入剤の服用で症状は安定しているが,調子がおかしくなるといけないのでお酒は飲まない。週2〜3日半日程度,作業療法のため授産施設に通って軽作業をする。人付き合いにも慣れ,職員に生活の相談に乗ってもらっている。生活保護を受けており,家賃は天引きされ,医療費はかからない。一方,貯金や保険加入は認められず,10万円程度の現金の手持ちしかできない。「話を聞いてもらえるのがうれしい」と言ってくださった。(水野・華山・籠島)
- 50代男性、1人暮らし。20歳の時から糖尿病を患う。心臓の持病もあり,血圧の変化が大変。週3回人工透析に通っており,透析が3日あくと何もやる気がしなくなる。医療費は年間600万円かかっている。仕事もできないので生活保護を受けている。ヘルパーにきてもらったり,病院への送迎をしてもらっている。シルバーシートに座っていると白い眼で見られるので,内部障害者はつらい。万一骨折したら車椅子の生活にならざるを得ず,そうなったらもう生きていたくない。少年時代に,来日したビートルズの公演を見ようと東京まで無賃乗車して捕まったこと,アイドルの追っかけもしたこと,糖尿病を患う芸能人や,携帯電話の「出会い系サイト」の問題など,話がつきなかった。「ボランティアとして何もできないが」と言うと「話を聞いてもらえるのがうれしい」とおっしゃった。何度もお話ししたいと思った。(水野・華山・籠島)
- 70代男性。奥さんと2人暮らし。息子・娘さんが近くに在住。長く神戸に住んでいて,阪神水害,戦災,震災の3つに遭う。震災時は鷹取駅北側,旧市電通東側に在住。出火したのが線路南側と広い通りの西側だったので,延焼しないと思って安心して,娘さん宅に避難していたら,その間に全焼。何も持ち出せなかった。明石市の息子さん宅に移ったが,神戸に住みたいと思い,須磨区内のマンションに移る。何度も落選したあとここに入居。現役で働いていた時から心臓疾患があり,西市民病院に入院したこともある。25年間国立神戸病院に通院,手術も。歯は入れ歯で,食べた気がしない。若かった頃に戻りたいとのこと。現在住んでいる部屋は南向きで,ベランダがあり,西日がささない方角に位置するのでいい。高い階でないので,吹き込む風は強すぎず暖かい。(原・坂本)
- 20代?女性。腰が悪くて立っていられない。あと2〜3日で入院予定で,「またお世話になります」とのこと。(増田・佐沢・長船)
- 70代?男性。震災時は兵庫区在住,自宅は全焼。すぐに燃えてしまい,中のものは取り出せず。湊川高校での避難所生活を経て西神中央公園の仮設へ。兵庫区の復興住宅に入りたかったが入れずにここへ。今の生活は慣れていないけれど仕方がない。何もすることがないから,兵庫へ行ってブラブラするばかりだが,それも遠くてつらい。(増田・佐沢・長船)
- 80代女性。長田区で被災,自宅はすぐに屋根が落ちて全壊,隣の人に壁を破って引っ張り出してもらい,靴下1枚,着の身着のままで逃げた。さらに一番に全焼してしまったため,何も持ち出せず。葬式代にとおいてあった現金も燃えてしまった。市からもらったお金で助かった。地震の翌日,避難所にストーブが入り,ほっとした。息子さんがいる高松へ,ご主人とともに行ったが,そこでまもなくご主人が倒れ,亡くなった。その後気兼ねして,高松を出て神戸へ戻り,垂水区内の仮設へ。近所の人も焼け出された者同士なので仲良くやれて,おりやすいところだった。3年ほどいたあとこの復興住宅へ。55年間住み,子育てをして,なじんだ長田にいた時とは勝手が違う。あのとき死んでいたらと思ったこともある。今月長男を亡くした。糖尿病,腰痛に加え,血圧も高くなり,目も悪くなってきている。両親が若くして亡くなっており,自分も糖尿病を患っているので,88歳まで生きられるとは思わなかった。体調の悪い時は幅が狭い電動ベッドでは寝づらく,畳の上で寝たり,何日も入浴できないこともある。週2回ヘルパーにきてもらっている。前は通院していたが,今は往診してもらっている。寝たきりにならないように運動がてら動いたりするが,今はじっとしている。植木を持ってきたが,植え替えができず,また西日のため,かなり枯らしてしまった。腰痛のつらさに加え,11階は降りるのがしんどい。買い物に出られた時は幸せだった。イラク戦争は迷惑やなぁ。第2次大戦の時は兄弟が兵隊に行っていた。あのころは無茶やった。姫路に眼の神様が祀られているので,花見はそこでしたい。「ここへ来た時はシャンとしていたが,今は腰も曲がってロクなことあらへん。でもいい人に助けてもらって元気に生きている」とだけは書いておいてほしいとのこと。(増田・佐沢・長船)
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