お話し伺い訪問メモより
2003年05月10日
[復興住宅]
- 70代、男性。長田区で被災、全壊。妻は地震の時、柱に挟まれて亡くなった。私も地震で脊髄をやられ右肩に人工骨を入れていて、今も腕が上に上がらない。家の中に何ヵ所も手すりをつけている。ヘルパーさんに週に数回来てもらっている。身体は自由効かないが仕事の相談などを、今でも電話で応対している。私の家に人の来ない日はないねん、一度名前覚えたら絶対忘れへん、人を使おう思うたらそれくらいせなあかん。若い人はもっと本を読まないといけない。と元気な声のお話しを伺う。最後にお話しを聞くボランティアに「顔と顔を突き合わせる。これ心のスキンシップって云うねん」と喜んでおられた。(華山、長船、島原)
- 60代、男性。兵庫区で被災、全壊。二階で寝ていたが、ベッドが宙吊り状態になり、頭から落ちて脳内出血となった。そのため足が悪くなった。今も通院しているが全く直らない。以前は鳶の仕事をしていた。橋梁がドスンと落ち、足を怪我して入院したこともある。しばらくして良くなって、職業安定所に行き警備の仕事を紹介されて、役所の人と一緒に行ったが断られた。そのため今は生活保護を受けている。「身体は元気な方がいいわ、やすんどってもしゃあない、車椅子貸してくれとるからいいが、今、3人のヘルパーさんに火、水、金と来てもらってんねん、一人やとさみしいわ」と玄関口でお話しを伺う。(華山、長船、島原)
- 70代男性、一人暮らし。中央区で被災、全壊。学校の避難所へ行ったが、もう人がいっぱいで廊下しか空いていなかった。寒くて眠れなかった。配られてくる食べ物は始めパンだったがご飯の弁当になった。ご飯の弁当も遠くから来るので三日前の物で冷たく固かった。それでもお腹がすいているので食べた。地震の時は何が何だかわからんかった。隣にバラックが建っていなかったら家がペシャンコになっていたと思う。しばらくして隣の学校の避難所に空きが出来、そこに移ってから寝られた。その後須磨区の仮設住宅へ入り3年以上辛抱した。この団地は仮設住宅の時、周りの人と一緒に申し込んだ。2万2千300円の家賃だから公団より安い。震災前は文化のようなところに住んでいた。罹災証明をもらうのに長蛇の列が出来、寒いなか長い時間待たされて大変だった。前の日から並んで待っている人もいた。役所の係の人は他府県から応援に来ていた人だった。書類がズサンで半壊と云われ腹が立ち怒った。地元の係が出てきてやっと全壊を承認された。仮設住宅に入ってから目が悪くなり、新聞やテレビが見れなくなりラジオを聞く生活になった。20才の時、愛媛県から仕事探しに神戸に来た。神戸には叔父さんがいてお世話になった。造船の関係の仕事を定年までした。目が悪いのでヘルパーさんに買い物と食事に来てもらっている。デーサービスに週2回迎えに来てもらって行っている。この階の人も他に2名一緒に行っている。デーサービスでは風呂に入るのが一番の楽しみ。この団地の風呂に入ったことがない。目が悪いので出歩けず、家にずっといるとボケてくるので団地の外のベランダまでは出るようにしている。垂水に兄夫婦がいて心配して時々来てくれる。家は全壊したが土地は残っているので工務店から「家を建ててあげる」と時々来る。家を建てる金がないからやっとここに入れた。「工事ボランティア」を名乗って材料費200万取って逃げた者を知っている。「ボランティア」を名乗る詐欺や、震災のドサクサに泥棒する人に腹が立っている。(華山、長船、島原、鹿島)
- 50代女性。母親と二人暮らし。長田区で被災。震災の時、母は入院していて無事でしたが、痴呆が進み私の言うことがわからない。しかしトイレは自分で行くことは出来ます。地震のあと、九州熊本の親類に2年近くお世話になりました。神戸に戻って須磨区の仮設住宅に入居しました。この団地には5年前に入りました。父親は38年前に亡くなりました。母は83才になります。ここに入るまで3回も引っ越しし費用がかさみ、引っ越し貧乏になりました。今は医療費が月6千円もかかり大変です。(松下、矢野、籠島)
- 80代男性。ご夫婦二人暮らし。須磨区で被災、全壊。地震の時、運良く無傷でした。神戸の二人の息子の家も無事でした。息子達は毎日来てくれて良くしてくれている。戦争中は中国にいた。あまり戦地には出なかったが足を痛めた。今、車椅子も使っているが最近は松葉杖で歩いています。なかなか思うように歩けずなさけないと思っている。生活は年金を受け有難く暮らしています。(矢野、松下、籠島)
- 80代男性。一人暮らし。長田区で被災。共同住宅に住んでいたが全壊した。震災前から一人暮らしで結婚はしたことがない。20年来一人暮らしを続けている。家族は皆亡くなっている。仮設住宅は3年半ポートアイランドで暮らした。戦争中は民間からの出兵でインドネシアにいて鉄砲もかつがされた。戦後の引き上げ後、すぐに貿易関係の会社に勤めた。しかし結核を患った。67歳の時、腎臓を患い医者からたばこを辞めるように云われた。それ以来ずっと右目が悪い。この団地はええ所です。一人暮らしは気楽でええ。(矢島、籠島、松下)
- 60代女性。ご夫婦二人暮らし。須磨区で被災。全壊。自宅兼店の2階に住んでいたがつぶれてしまったので商売も出来なくなった。家から物を取り出そうとしたが家具が全部駄目になり置くところもないので、衣類しか持ち出せなかった。仕事も家もなくしストレスは大きかった。須磨区の仮設住宅で過ごした。震災後、ストレスの影響で夫の血圧が高くなり平成9年脳梗塞で須磨の病院へ入院した。今も電車とバスを乗り継いで通院している。足が悪いので長い間歩けず、言語にも障害が出ている。週2回の通院とデーサービスに週1回通っている。病院に行っても介護保険でもお金がかかり、年金だけの生活なので毎日大変です。この団地に入っても家具を買い直したり出来なくて・・・2年前の生活とあまり変わらへんわな、やっと凌げるようになったという感じで。「ふれあい喫茶」もなくなったし、行事も減った。もうそろそろ、えーまだ震災?って感じで・・ボランティアも減っているし、いつまでも尾を引いているんじゃ困るけど、なにぶん年寄りなんで前へ向かれへんもので・・何か催し物でもしてくれれば、皆出てきてくれるようにも思うけど、引き籠ってしまってるのよ。 (長船、東条)
- 70代女性、ご夫婦二人暮らし。父の代から輸出関係の仕事をしていたが、震災で何もかも吹っ飛んだ。3年前、友人と共同で事務所を立ち上げたが、もう少しと云うところで主人が病気で倒れ入院した。また全てを失った。二人の年金も銀行の担保に取られている。仮設住宅の時に生活支援金を借りまだ半分しか返せていない。このままだと生活支援金の小額返済すら出来なくなる。主人の病気の世話をしていると仕事が出来ない。私たちの老後はまだ先の事、足元が片づかなければまだまだ老後に入れない。生きてゆく為に、生まれてきて良かったと思えるまで死んではいけない。今、どんな仕事でも欲しい、がんばる以外にない。(東条、佐沢)
- 70代、女性。兵庫区で被災、半壊。須磨区の中学校へ避難した。避難所生活はトイレが辛かった。一番最後まで残り、須磨区の仮設住宅へ移った。この団地には孫と曾孫の3人で当たった。娘は兵庫区の自宅を修理して帰った。孫と曾孫の二人は出ていったので今は一人だがここに居られるだけで良い。仮設住宅の時も今も、まわりの人との付き合いはない。やっと隣のご主人の顔を覚えたが他の人の顔を覚えられない。地震の時ははじめ何やと思った。ガタガタ揺れて地震と判った。友人が地震の時入口の戸を開けよと言っていたが正解だった。逃げ口の戸を怖いが開けた。身体がユラリ持ち上げられ、何回も揺れ戻しがあり怖かった。逃げる時、足をくねって骨折したのを今も引きずっている。ここに居ると話す人もなく鬱になる。元の兵庫の家の方に戻って歩くだけでも気が安らぐ。週に数日兵庫に戻る日はサークル活動にも参加している。だから無料バス券はとても嬉しく助かっている、と何回も何回も繰り返して云われた。(東条、佐沢)
- 80代、女性。ご夫婦二人暮らし。東灘区で被災。西区の仮設住宅に入った。足は悪くなったが、今まで医者にかかったことがない。よもぎが胃腸に良く、毎日ゆでて焼いて食べている。身体は食べて直すのが良い。医者に行って、余計悪くなったりする。血圧を計り、それを気にしてそこから病気になる。病は気からなる。スイカ、みかんの皮を乾燥させてワカメと混ぜるとおいしい。みかんは、長田に居る娘がたくさん送ってくれる。ごみは極力減らしている。汁、皮等も捨てない。自然を大切にしないといけない。「若い人は、人の為より自分の為に、自分の身内の為に、行きなさい、何ごともほどほどにすること、神仏は人間だけかわいくない。(松下、矢野、籠島)
2003年05月24日
[復興住宅]
- 60代男性。仕事が見つからず困っている。ハローワークに行っても見つからない。これから先がどうなるか見えない。(華山、矢野、長船)
- 70代男性。須磨区で被災。糖尿病、心臓の不整脈、アレルギー鼻炎、便秘、コレストロール高い。私は、震災直後入院(大腸ポリープ切開)で40日間入院。以後体調が悪く年齢も高いのでずっと病院通いで現在に至っておりますが、生活環境も良いので今の生活に満足しています。現在一人で大丈夫です。(本人自筆)
- 70代女性。須磨区で被災。地震の時、家は大丈夫だったが階段が落ちた。私は2階で寝ていたので大丈夫だったが隣の人は死ぬ直前で助けられた。異常な匂いがしていた。糖尿病で血糖値が高くなった。風邪をあまり引かないが昨年二度ひいてから血糖値が特に高くなった。それ以来なかなか下がらない。プールにも週3、4回通い、夜は食事の後散歩をしている。腹筋と背筋を10回毎晩している。それでも血糖値はなかなか下がらない。もうええわと思うこともあるが子供に迷惑かけたらあかんと思うと運動はせなあかんと思う。仮設住宅は炊事場が共同であったので弁当を買って食べた。野菜を多く食べ、肉はかしわだけ、コーヒーは砂糖を入れずに飲むようにしている。両親を小さい時に亡くし、一人で何でもせなあかんかった。一人で子供三人を育てた。今までいろんな怖いめに遭ってきた。空襲、水害、高潮、震災と。昔は、働け働けの時代で働いてその分食べていた。その時は糖尿病なんか知らなかった。青春時代は戦争でなかった。戦争中は食べ物がなかった。その反動で食べ物をたくさん食べるようになった。合併症が出ないようにしたい。運動は出来る限りつづける。元気に生きていくしかない。今日はこんなに沢山しゃべってすっとした気分になった。(木原、西岡)
- 70代女性。ご夫婦二人暮らし。長田区で被災、全壊。地震の時は有馬温泉にいた。電車が止まり、車で家まで送ってもらった。帰って見ると隣の家に押しつぶされて崩れていた。直後は滋賀県の親類にお世話になった。須磨区の仮設住宅に入り最後の方になってやっとこの団地に当たった。この団地は買い物に便利やけど近所付き合いがちょっとね。集会所の催しにも人が集まれへん。一人暮らしの人が多くてなかなか外に出へんし、女の人が多くて男の人が少ない。男の人は酒飲んで怖いからねえ。どうしても男の人とは付き合いにくい。若い人も一緒に住んでたら安心なんやけどね。上の階の人が死んでから2ヶ月たって見つかった。隣も空き部屋のままになっている。押し売りや宗教の勧誘の電話が多いし私みたいな人は負けてしまう。高齢者が多く何かあったら不安です。 (華山、矢野、長船)
- 60代男性。どういう事をしゃべったら良いか分からない。シルバーセンターにもコンタクトをとっているが、働くところがなく困っている。根本的な問題は経済問題やしねえ、お話しを聞くだけでは前進がないからなあ。こちらから言う事は経済問題や。日本も外国も先が見えない。何かそれ以上のおみやげが欲しいね。もうちょっと行政が動かないと、ボランティアの云うことを聞くのが先決や、行政が一からプロジェクトとしてやっていかな。 (華山、矢野、長船)
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