お話し伺い訪問メモより
2003年06月14日
[復興住宅]
- 60代男性、一人暮らし。訪問するなり突然「自分らエライな」と言われる。はじめは「震災のことは忘れたい」,「覚えてたら尾を引く,ジメジメする」,「ここで死んでいくんや」と否定的な表現ばかりをされていたが、次第に「教えられる事は話すけど」と態度が柔らかくなって行くのが感じられた。ボランティアや自治会役員を経験。仮設や復興住宅についての知識が極めて豊富で、復興住宅では高齢者優先入居のツケで自治会役員のなり手が無いという事だった。住民に意識改革の気持ちが薄く、役員と住民の間に意識のずれがあったり,役員に対して何も言おうとしない事を嘆いておられた。週ボラに若い人が集まるのに「スゴイ」と言い感心して下さった。最後には「がんばって」と力強い励ましを頂いた。(谷川・華山・長船)
- 60代男性、一人暮らし。大工をしていた。建築の仕事は厳しく,義理人情もないのが手抜き工事につながる。62才で「明日から来んでよい」と言われてムチャ腹立った。健康が得られるため今も山登りが趣味。山のことや歴史にくわしい。六甲山を短時間で有馬方面に縦断するなど体力に自信があるが,体力低下するのが不安なためペースを落とすことができず,同年代の友人がなかなかできない。自分の身体を守るためには自分の考えで生きて行き、人間不信になる。しゃべる相手がいないと一人暮らしはうつ病になってしまう。2~3ヶ月後の孤独死が発見された部屋が再募集されていた。住宅に安全ボタンが必要だとの問題提起も。(足立・籠島・坂本)
- 70代女性。灘区で被災し,近所の人と病院に行ったが半日近くも待たされた。北区の仮設住宅を経てここ須磨区の復興住宅に入居しました。震災後目を患い,転居で悪化しました。仮設住宅に移ってからは両目が悪くなった。杖を使うのも慣れないために壁を伝って歩いています。雨の日は滑ってしまうかもしれず怖いです。(原・原田・矢野)
2003年06月28日
[復興住宅]
- 70代女性、ご夫婦二人暮らし。須磨区で被災し、明治時代に建てられた家は全壊した。借地でもあったので再建はあきらめた。避難所には入らずに息子の家に世話になった。西区の公営住宅の空家募集に申し込んだら、スッと1回で抽選に当たった。しかし、自治会が「被災者は老人会に入れ」と強要したため、自治会との折り合いが悪く居ずらくなり、この団地に転居を申し込んだ。娘時代、私は昭和16年から24年まで北朝鮮にいた。敗戦により着の身着のまま逃げるように日本に帰った。夫は電気工事の仕事をしていたが昨年脳梗塞で入院したが今は元気。息子は3人いるが3人とも電気工事の仕事をしている。生活は年金暮らしだが私は今も病院で働いている。歯は自分のもので眼も良く腰も悪くない。家おったらあかんよ、足腰上がる間は動かなね。(籠島、塚本、矢野)
- 50代男性、母と妹の3人暮らし。長田区で被災し家は全壊した。須磨区の仮設住宅へ入った。この団地には4回目の抽選に当たって入居した。父は2年前に亡くなり、母も身体が悪く医者を欠かせない。妹も喘息を患い入退院を繰返している。そのため精神的にも弱くなってきている。特に梅雨の時には湿気が喘息には悪く、更に気持ちが落ち込み人との関係も難しくなっている。週に一回入浴サービスに来てもらっているが、人によっては受け入れられないので介護を受けるのも大変です。(塚本、籠島、矢野)
- 60代女性、夫婦二人暮らし。長田区で被災、一戸建ての自宅が全壊、屋根が潰れて下敷きになったがかすり傷も無かった。地震はアッと言う間。時間はボーとしている。何が何やらアーという感じでした。近くの中学へ避難し5月からありとあらゆる虫がいる東加古川の千戸もある仮設住宅へ移った。駅からは近くて便利だったが夏は暑くクーラー代が月1万4千円もかかった。8年は割りと早く、知り合いが近くにいたこの復興住宅へ来た、ここはよい所です。ご夫妻お元気の様子でした。(佐沢、東條)
- 60代女性から貴重なお話を伺う。90台のご両親を通いでお世話している。震災の時北区から長田区へ救援に出た。全焼したご両親の家で、仏壇の上に穴があき自力脱出した父に会う。母は入院中で無事。全壊した姉の家に行き、偶然前夜テーブルの下で寝て潰れなかったと言う姉を救出。高層の親戚の家に向い、13階の階段にたどり着いたとき頭が真っ白になりそのまま失神状態に。北区に戻り、ボンボン燃えている長田区との余りの違いにショック。その後ボランティア活動に参加、娘さんも自分でボランティア活動に参加する。周りで、ご自分の姉も含めて最近多くの人が亡くなっている。あの時はがんばった。しかし本人も気がつかずにごっついストレスがたまっていたのではないかと言う。50代、60代で次々亡くなっている。90代後半になるというご両親から冷たい麦茶を頂きながら、記載しきれない感無量のお話を多々伺う。(佐沢、東條)
- 70代後半、1人暮らし女性。長田で被災、近くの小学校から北区の仮設に入り自治会長を1年やった。自治会では色々な問題があった。7人姉妹の長女で内二人が震災に遭った。自分は娘の時に大阪で戦災に合っている。50年前に夫を亡くしずっと1人暮らし。震災ガンバラにゃ。甘えてはダメと繰返す。キチンとしたい人である。父は軍属で南へ行き戦後になってからマラリヤで死んだ。母は4年前ショートステイで体を悪くして入院後亡くなった。母には震災ショックがあったかもしれない。ご自分は正直過ぎて保証人になった金を支払っている、人は怖い、などの多くのお話は時間が足りず、電話番号を伺い後ろ髪を引かれながら辞去した。(佐沢、東條)
戻る