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お話伺いメモ 2004/1/10

80代男性。灘区で被災。自宅は全壊,夫婦2人暮らし。仮設住宅(北区)は幸せだったと終始笑顔で話してくださった。(矢野・華山・東條)

70代女性。灘区で全壊被災、家族は無事。2003年11月に灘の浜で訪問者を装った女が包丁を持って入った強盗事件があってから,1人でいるときの訪問者が怖くなった。家は全壊,3年間テントで過ごし,東灘区の仮設住宅に一番最後に入居。2年間そこでボランティアをしていて,茶話会や弁当の配布などをしていた。「ボランティアは仏の心がないとできない」。今ようやく落ち着いた,環境のいいところにきて感謝している。「震災は忘れられないやろね」,「助け合っていかなあきませんね」。被災時現場に残って亡くなられた方の遺体の収容などにあたり、「乞食のような恰好」で頑張ったご主人をたいへん尊敬していて、現在も防災の有資格者として自分のことをほっておいても他人につくすご主人を「秀才」と呼んで敬意を表し、終りは明るい話となった。(矢野・華山・東條)

70代女性。兵庫区で被災。仮設住宅は西区。一人暮らしで通院中だが日常生活は大丈夫。しかし問題はこれからの生活とお金。以前は主にクリスマスの飾り付けをつくる仕事をしていた。昭和一ケタの生まれで空襲に遭い,周囲は焼けたが自宅は焼け残った。戦災で焼け残った街も震災で消失した。シルバー乗車券は便利で助かっている。(佐沢・原)

60代男性、夫婦二人暮らし。兵庫区で被災。仮設住宅は西区。震災当時から色々なボランティアをしている。今の住まいに住んでまる4年になるが不満足で仮設住宅の方がよかった、と言われる。20代の頃は,港湾荷役のきつい仕事をしていたため,仕事中に倒れた時も「作業場にいたつもりが,気がついたら病院だった」ということがしばしばあったが,それ以降は現在まで健康でいる。震災10年目で忘れてならないことは、助け合いと普段から大地震の備えをして置く事。年金の改善と公害をゼロにする事を願う。バスの増発を望み、市には街を壊すことを止めて欲しい。(佐沢・原)

60代女性、夫婦二人暮らし。ご主人は脳梗塞の後遺症で1級障害者。東灘区で被災。垂水区の仮設に避難ののち東灘区の民間マンションに。仮設住宅は人間的に良かった。奥さんが怪我をしたため定年を2年早めて退職したため,公営住宅に移ってきた。飼っているフェレットが奥さんの癒し。訪問時は,東灘でのご近所の方に連れて行ってもらって,新鮮な野菜や肉などを買いに三田に行って帰ってきたところ。それらについての話題を交えつつ,上がり込んでの訪問となった。震災には水、ラジオ、乾電池の準備を。市にはすぐ行ける医院を作ること、福祉を削らないこと、を願う。(佐沢・原)

70代男性。灘区で全壊被災。南側にすらり高い建物が建ち,海は見えなくなり,陽射しも悪くなった。やがて人が入ればこちらの家の中はまる見えで,うかうかハダカにもなれない。プライバシー侵害と防犯面でも気がかり。せめて安く買い物のできるスーパーでもつくってほしい。震災は忘れたころに来るということ、防災面でのキャンペーンを続けて欲しい。(本人記入)

70代女性、一人暮らし。兵庫区で被災,自宅は倒壊し,夕方には全焼した。ローンが残り,区画整理で土地を売って返したが,まだ残債あり。仮設住宅に当たらず,北区の民間マンション(家賃月8.5万円)で4年間過ごす。入居してすぐ水が使えたのがよかった。夫を亡くした後,こちらに移って5年になる。ここは最初の頃は見学者が多く,外国人や天皇もきた。ここは子どもや若者の声が聞こえない,不自然な,普通ではない生活である。老人ホームの一歩手前である、と言われる。元気で動けるうちはいいけど,病気の時が大変。1Fの共同スペースでお話伺い。(華山・長船・矢野・榎原)

お話伺いメモ 2004/1/24

60代後半、男性一人暮らし。震災時、マンションと店がつぶれ、長田で死体を運んだりもした。この棟は平均年齢75才。年寄りや病人が多くこれから大変な事になる。4年で7名の方が亡くなられた。設備は完備しているが、アフタケアを考えていない。入れてしまえばそれまでで、痴呆などが発生し、夜も物凄い音がして眠れない。掃除や洗濯や炊事が出来る人が助け合って住むとのコンセプトのはずが、飲酒や痴呆の発生で困っている。洗面器と便器の区別もつかず、エレベーターに垂れ流しも。一部屋にゴキブリが出ると他の部屋にも影響。LSAの人も「がんばります」と言うが年寄りばかりでグチャグチャ。こんな状態で「自立」だろうか、とかなり厳しいお話を伺う。また、意識不明の様にして救急車で運ばれるときに「お一人ですか?」「何歳ですか?」と聞かれるのはかなわんので、自作の「安心カード」を作ったとご披露を受けた。家族持ちの方でも単独行動が多いので有効、一人でないとは錯覚、との事。貴重なお話であった。(中山、華山、長船)

70代女性。エレベーターの掃除が大変。ゴキブリが多い。階段に手すりが片側しかない。ペットを飼っている方がいる、においや声がする。など伺う。(中山、華山、長船)

70代女性。全壊、水道管の破裂で家財が水没。「私らの年代は戦争も水害も知ってます。」自転車や車にぶつけられ転倒してその都度リハビリ。「何とかお世話にならないように前向きに生きていかなきゃしょうがないわ…」と生きていれば何とかやっていけるとの意気込みを感じた。しかし、ここは近所付き合いの感覚は少ない。あまり外に出てこないし暗い感じ。一日誰ともしゃべらないことすらある。じっとしてたら「自分がダメになる」とまで。ここは自治会やイベントも無いが、仮に集まってもみんなしんどそうやろうし、と言われる。LSAは年に1回しか来ない。24時間監視システムは有難いがボタンがいろいろあってご操作したり。インターホン位置がベットから遠くて不便。高齢者になると、理不尽な事でもことなかれ主義で「ガマン」しているのではないか?意見があっても言わない、とのこと。ここでは笑いがない、とのお言葉がいつまでも頭に残ったお話伺いであった。(中山、華山、長船)

60代女性、一人暮らし。灘区で全壊ののち全焼。5分ぐらいで火が回ってきて焼けた。戸が開かず、壊れかけた壁から逃げようとして2度目に成功し壁穴を裸足でパジャマのまま抜けた。煙りが尻のところまで迫ってきていた。火は怖いから見ていない。ドーンドーンとすぐに焼けた。近所でも5〜6人死んでいたらしい。詳しく聞こうとして怒られた事があり、生きているから口出し出来ない。事実関係もはっきり知らない。2時半に小さなおにぎりをもらった。水が出ないのが辛い。風呂には17日間はいれなかった。寒いと考えた事もなかった。夫さんは2年前に亡くなったが、昼間は働いているから生活は困らない。近所の何人かのお年寄りのボランティアをしている。お年寄りは金銭的にも問題が多い。「イラクの人には悪いけど、ここにも援助したい人がいっぱいいる」と語られる。(佐沢、東條)

70代男性、一人暮らし。兵庫で全壊、半焼。火は直接燃えるものではない。火は飛んできて自然発火する。またカケラが飛んできて少しするといこってくる。屋根から湯気が立って、燃える。消火栓が2ヶ所とも水が出なかった。17日の夜燃えたが、朝の2時半までどぶの水をすくって火消しをし、延焼を止めた。焼けたものの気持ちとして、これは人災である。生き埋めや、足を挟まれて生きながら焼かれた方もいる。止めたらんかいや、という者もいたが殺人になる。立ち話で出来る話ではない。支援法では東京へも数回行った。写真など貴重な資料を見せていただき約1時間のお話伺いをさせていただく。(佐沢、東條)


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