お話伺いメモ 2007/9/8
60代男性、灘区で全壊。ダンプが飛び込んで来たナと思った。母が頭をタンスに挟まれて怪我をしたので病院へ連れて行ったが医者が何も出来ない。電気も水もないので懐中電気を手に入れてきてそれで照らして縫った。避難所ではトイレが困った。着替えも出来ない。仮設はベニヤ作りでただ寝られるというだけ。実は震災の年に手術をする予定になっていたが、こんなことになって13年まだ果たせず、注射も次第に効かなくなってきた。一方、母の認知症がひどくなってきて手術の間の手立てが立たない。地震はほんとにえらいことだった。が、あちこちから助けにきてくれてうれしかった、と。1時間のお話で窮状が伺えた。情報を伝える。
70代女性、東灘区で自宅マンションが全壊。今は一人暮らし。地震の時は起きていたので慌てなかった。夫は2番電車で脱線被災し、手摺りにつかまって助かり、自力で抜け出して家に戻ってきた。経営していた会社は、仕事はナンボでも有ったのに被災地の人手不足で倒産し、マンションも会社も銀行に取られた。あれはなんだったんだ、あの地震さえなければ、と今でも思う。落ち込みの激しさにうつになった。姉は戦争の空襲で亡くなり、父は交通事故で亡くなり、夫はここで病気で急逝した。いま被災地が増えているが、うちのほうもきつかったよ、といいたい。お宅らだからいえると、震災倒産した会社名も聞かせてくれた1時間のお話伺い。
80代女性、中央区で全壊。仮設で3年、ここで9年。足の悪い夫を施設へ入れてもらう相談にいっても書類に1ヶ月掛かり、200人待ちで数年かかるというんだから。私も世話がえらいといわれる。震災までは働いていてお金には困っていなかった。一人暮らしの人の昼食会や50円でパンとコーヒーが出るふれあい喫茶や100円の喫茶などのことも伺う。
60代女性、灘区で全壊。手をはさまれて3時間埋もれ、「あ、おった!」「助かった!」などの声を聞きながら救出を待った。ヘルメットをかぶった人が、すっと助け出してくれて、畳に乗せて運んでくれた。助かって外へ出て初めて地震だったとわかった。何も取り出せなかったが、アルバムだけは取り出せて手に残ってよかった。仮設で3年。いい所で、催しも多く、皆仲良くしてた。ここもいろんな行事があり、気がねなく地震のことでも何でも話せる。新しい被災者の方に、私が障害者で皆に助けられたから、みんなさんも頑張って、と1時間の話し込み。
お話伺いメモ 2007/9/22
80代女性、灘区で被災。灘区で被災。明石の親戚宅に避難の後ここへくる。訪問を宗教の勧誘と勘違いされ、くり返し説明する中でドアが少し開きドア―チェーンが外れ、最後はドア―も大きく開いて話しが弾んでいった。大阪で生れ、実家も職人、ご自分も調理学校に学ばれ小さいころは淀川で泳いだ。結婚して神戸へ。市営住宅に20回もの抽選を経て入居。くじ運が良く早く入れた人で震災の犠牲になった人もいる。運命はわからない。ここは買い物に便利で店の人も良い人でと話しがはずんだお話し伺いであった。