お話伺いメモ 2008/9/13
80代男性、奥様は入院中でありしばらく一人で暮らしている。訪問が長引いていたため夕方になってから訪問。予告チラシを見たので待っていたとのこと、夕方にもかかわらず、上がらせて頂いた。被災状況などを聞く前に先方から「回っていてどうですか、なかなかこうやって話を聞けることは少ないでしょう。(HAT神戸の住人は)なかなか人には会いたがらない、色んな業者が来てそれが10年間続いているから警戒しているんですよ。日本にはなかなか悩みがあるから聞いてあげようかという土壌がないんじゃないかな。お回りになっていただけるのはありがたいんだけど、おそらくは8割くらいがNoだろう」とおっしゃられた。また、「新潟中越地震の際に山古志の村長さんが非難するんだったらみんな一緒のところに避難しようじゃないかと言った、それが正解なんですよ」と語られた。神戸の場合は被災範囲が広く、被災者が分断されたことでその後の再建に格差が出ている現状を再認識する訪問でした。
70代女性、一人暮らし。通りの文化住宅にて被災され避難所へ。他の被災者が次々と仮設住宅へ移っていったが結局8月にようやくポートアイランドの仮設住宅へ。その仮設住宅も8軒の長屋で最後の一軒になるまで3年間入居、出て行く直前は夜になると真っ暗で不安だった。H11.にHAT神戸に入居した。入居の際、長男と同居しようと兵庫県にかけあったが、長男は被災当時神戸に在住しておらず同居を認めてもらえなかった。震災で一番つらい思いをしたのは、地の繋がった親子がバラバラにされたこと、こんなことがあっていいんでしょうか、ずっと納得がいきませんでした。と悔しそうに話された。ご自宅にお邪魔させていただき70分程度の長時間の訪問でした。
80代 男性,夫婦2人暮らし。中央区で全壊,住んでいた借家は再建されず。復興住宅は,孫がきたときや仏壇の置き場所のため3DKを申し込んだらなかなかあたらず,2DKに申し込んでやっと入居できた。震災に遭ったが「神戸は第二の故郷」として気に入っている。訪問したボランティアの一人が同じ南国出身とわかり,うち解けたお話し伺いとなった。
70代のご夫妻。中央区で被災。全焼。その後ポーアイの仮設へ。ご主人は「頑固者」風で奥さんはニコニコして包容力ある似合いの夫婦。直ぐ上げてくれコーヒーをご馳走になった。以前「水道局のほうから来ました」と言って、ガスレンジのフィルターの販売員がきた。設置するので、ただかと聞くと3千円というので断って帰した。「あんなのは100円ショップでも売っている」とご主人はかんかん。それから布団の販売。これは、景品で釣って、個人宅に集まってもらい、売るそうだ。「集まっているので来てください」と言って、呼びにきたそうだ。セットで35万円。めったに買う人はいないようだが。良い雰囲気で話ができた。後ろ髪を引かれる思いで、お礼を言って帰った。
お話伺いメモ 2008/9/27
80代夫婦。灘区で全焼。しあわせの村の仮設で過ごした後、建て直した灘区のご自宅に戻り、6年前に越してきた。ご夫婦共に趣味に熱心で、奥様は絵画、ご主人は、時代物やサスペンス物の読書と、お好きなことに熱心で元気に暮らしている様子が伺えた。
70代夫婦。灘区で全壊。東灘区の仮設を経て、残り2,3軒のときに抽選に当選した為、9年前に越してきた。三宮まで徒歩20分の便利な立地に感謝していると。食事はご主人がされており、仲良くお暮らしになっているご様子。毎日「ありがとう」の言葉を唱えて、幸せに感謝しているとの言葉が印象に残った。
60代男性、70代女性夫婦。灘区で半壊。ご主人は働いており、年金授受はまだなため、生活は苦しいと。昨年まで寝たきりのお母様がご存命で、妹と共に約10年介護されていたと。クラッシックをはじめ歌が好きとのことで、いくつか歌を披露したら喜んで頂けた。
60〜70代夫婦。ご主人が脳梗塞の為、言葉が不自由であり、奥様が付きっ切りで看病していると。ご苦労されている様子でしたが、笑顔で対応いただきました。
60代女性。東灘区で全壊。仮設に入ることができず、各地を転々として、約7年前に越してきた。市営住宅の方が優先的に仮設に入れた上、入れなかった者への援助も不十分で、市の対応に不満があった。被災後、生きていて何になると思うこともあったと。ご主人は40代で脳腫瘍を患い、昨年26年の闘病を終えた。奥様が長い間家族を支えてきて、悲しみはなかったが、寂しさを感じていると。奥様も狭心症を患っているとのことでしたが、近所の方の面倒を見る活動にたずさわっているとのことで、お元気そうなご様子であった。
男性。60代女性の息子さん。お母様がパートのためご不在で、留守番をされていた際に訪問。震災時は、お母様が東灘区、息子さんが灘区で被災し、夫々全壊に。直ぐにお互いを捜索した為、すれ違いになり、再会出来たのは3〜4日後(張り紙はしていたと)。お母様は奈良に避難された後、ポーアイの仮設で数年暮らし、約10年前からこちらで一人暮らし。
一方、息子さんは、被災直後にボランティア活動に従事。その際の仲間が、東京都区の議員をしており、応援の一環で、当時の様子を語る演説をしに上京することもあると。防災意識は各地で高まっているものの、あの被災体験を知る者としては、あの規模の震災になると、生き残れたことが幸運であったと思うしかなく、生き残れた者がネットワークを作り、いかに助け合っていけるかが大事だと感じると話された。