お話伺いメモ 2009/2/14
80代、女性、一人暮らし。震災で頭を打ち、ストレスから毎日病院通いです。震災前までは風邪も引いた事が無いのにと思うと、今は誰もいない1人住まいで寂しい思いです。子宮筋腫を数年前とり肺がん糖尿病、この病気はストレスだと医者はいった。年も行ったせいか、肺がんは小さく固まったのでそれ以上治療はしていないが、ただ、ただ、1人ぽっちが淋しいと言われました。今低血糖で甘味を取り体を横にしていたので、中にはいって話しをしてもらえないがと、つかれていなければもっと話したそうでしたTELをみて電話下されば伺いますと言って別れました。
70代、女性、一人暮らし。灘区で全壊。家は屋根瓦が崩れて全壊。近くにテントを張って親戚の者や娘夫婦と孫2人で過ごしていたがとても寒くて水もなく、近くの保育所に避難していた。どういう訳かここはパンとコーヒーだけ、時々炊き出しがあったので何とかしのげました。その孫娘さんは2人で3歳と5歳だったが、一人が訪ねてきており、話題に加わってにぎやかとなった。5回目で北区の仮設に私は当り、娘夫婦は神戸の方に当たりました。主人は56歳で亡くなられたそうです。私のほうは仮設が壊されると言うのでここがあてがわれましたが、夏わ暑く冬は寒く、便利がわるいとこです。バスは1時間1本で、自分の年金と主人の年金とで食べる事は出来るのでと元気に話して下さいました。今は骨そしょう、高血圧、メヌエル。また仮設にはネズミがたくさん出て気持ち悪かったと孫娘さんが言ってました。ただ元気な方で、肩に手を回して握手をしてでました。感無量でした。
60代、女性、一人暮らし。震災の前の年の11月に舞子に引越した。長田に住んでいたので、もし引越ししなければ家具の下敷きになっていただろうと思う。ここには市営住宅の立替で入居した。平たい土地なので自転車で何処へでも行けて便利。偶然近くに親しい人がいて、入居して直ぐに出会えたので、割合早くこの地にもとけこめた。これだけコンクリートの建物が建っていると気が変になりそうで、実際に自分も救急車を呼んで日赤へ運ばれた。この棟は自治会が無いのでそれが困る。掃除にしても困ってる人を手伝うにしても話しが出来ない。ご自分は60歳代後半で、お元気で一人暮らしだけれど、今後年を取ったときの事を心配されていた。
お話伺いメモ 2009/2/28
60代男性、3人暮らし。灘区全壊。2階建てが1階になるほど倒れるのが多く、向の道に柳の木があって家を支えてくれたので死なずに済んだ。子供たちは逸早く外に逃げていて、家の中には奥様だけが取り残されて、何時間か後に助け出された時は冷蔵庫の横にうずくまっていて助かった。避難した小学校では、変な人がうろつき火を投げ入れたりして大変だった。でも全員無事が何よりとおっしゃられる。仮設がなかなか当らず、知人の家に4年いてバイクで通勤していた。今は3人。前向きに生きておられるのを感じた。趣味が多く退屈しないとも言われた。
70代女性、一人暮らし。長田で被災。着のみ着のままで逃げた。文化住宅の2階だった。1階の人は亡くなった。逃げたあと火事で全焼したので何も持ち出せなかった。小学校に避難して4月にはポートアイランドの仮設に入居した。主人が肺がんで10ヶ月しかもたないと言われていてポーアイの病院に入院していたのでポーアイの仮設にした。主人は本当に診断どうり10ケ月後に亡くなった。家具も何も無い仮設で葬式を出した。仮設に居るとき友達になった人に言われて便利だからとここを申し込んだら当った。当ってから入居まで2年待たされたので仮設には4年とチョットいた。フラフラするのでおかしいと病院へ行って調べてもらったら脳梗塞の跡が有った。今は近所の医者が週2回往診してくれるので助かる。殆んど外へ出ない。テレビもご飯時につけたりすると気持ち悪い。2つの事が1度にできない。大阪に息子がいて正月に来たりなんかするが、泊らないでくれと言っている。世話ができないから。若い時は農家の出で農家に嫁にゆき、そこのお姑さんと折り合いが悪く、出稼ぎ先から子供と私を呼んで家を出た。いろんなとこの工事の仕事をして、子供たちも文句も言わず恥ずかしがらずについたきた。今は家賃のことは心配ない。心配なのはお風呂。入浴まえは血圧も測るようにしている。何時倒れるか判らない。
60代男性。母と2人。中央区で被災、全壊。家財道具は持ち出せず。そのままポーアイの仮設住宅へ。3年そこで暮らす。復興住宅には幸い直ぐに入る事ができた。その後健康に問題あり、入院を何度かしている。80台の母を面倒を見ている。時間が有るとき、シートを書いて下さる。
70代女性。ご主人を2年前に亡くされ、今は一人。震災には長田であう。2階建てが1階になり家族が皆埋まった。お母さんは隣の家の土台まで飛ばされて、うちの家の梁に挟まれていた。皆んな怪我はなかったけど大変だった。仮設は西神で大きな仮設にいた。ここへ入って、カラオケの会を立ち上げてレッスンを受けていると、沢山の楽譜を見せて頂く。是非一曲をとお願いして”いいじゃないか”という曲を歌って下さった。西神からここへ入ってよかったと思っている。古いしがらみのある長田だったら、こんなに楽しく生きられなかったかも。ご主人は商売人だったが、美術館に行ったり、古いものが好きで、私のような無学な人間をよく育ててくれたと思う。息子もよくしてくれて本当に有難いと思っている。この棟で付き合っている人は5人で多くは無い。ゴミの分別が代わったのでそれを機に他の人とも話すが、上は若い人が多いので知らない人が多い。友人たちと”しゃきっと生きようね!”とはなしてるんよ、と仰る花のように明るい人だったので、こちらがもてなしを受け、ボランティアをされている気分でした。
70代男性、1人暮らし。中央区で被災。2階から飛び降りて足首を痛め、1週間ほど医者に見てもらった。奥様とは離れて生活していた。近くの老人公民館に避難していたお陰で食事や水は不自由しなかった。地震とは思ったが思いもよらず、暫くは呆然と周りを見回した。三軒先まで火が来たが、崩れた家は燃えなかったそうで、後で聞いた所によると付け火ではないかと言ううわさで、人の心の闇をのぞいた思いであった。4ヶ月ほど経ってポーアイの仮設があたって、そこから解体の仕事が回ってきてとても良い収入になった。それが2年ほど続いた。仮設にいるとき食中毒にかかり、福祉を頂ける様になった。田舎の奥さんがなくなり、7人兄妹も女2人を残して居なくなり、今は一人で生活しており左耳が殆んど聞こえない。ここにはもう11年入っているが、前立腺ガンで入院したり10年再発しなければ大丈夫といわれた。時々囲碁をしたりしているが余りしゃべられなくなり、人との対話は苦手である。仮設に居たときより寂しいという。私どもとは嬉しそうに話してくだった事が、大変嬉しかった。