お話伺いメモ 2009/5/9
80代女性、一人暮らし。今日は病院に行くから忙しいと言われるが、被災地はとの問いに「灘区で全壊だった」と答えて頂いた。何が起こったか分からなかった、私は埋まっていたから。両隣は一人づつ亡くなられた。埋まっていたら、お孫さんが助けに来てくれて病院へ。頭を7針縫うケガだった。その後は親戚の家にいたが気を遣って大変だった。六甲アイランドの仮設住宅を経てHAT神戸に入居してちょうど10年。「最初は皆知らない人ばっかりだったけど、今は仲良くやっている」と話された。同じフロアの女性を集めて茶話会を開いたりしていると明るく語る。私の世代は戦争も経験した。17歳で徴用され見習い看護婦として大阪の病院に勤務。ちょうど空襲があり、とても大変だった。「戦争にも震災にも遭い生き残った。『私には生きる使命があったんだと思う』」、その力強い言葉に重みを感じた。息子さん3人を育てあげて、8人の孫、2人のひ孫がいるとのこと。明るく、時に力強い語りにたくさんのことを教わった気がする。
70代女性、子息と2人暮らし。震災当時は、二階建て上下6戸の文化住宅の一階中央の部屋に夫と2人で住んでいた。震災では一階部分がつぶれて、二階が落ちてきた。6畳の間に布団を並べて夫と寝ていたが、傍らのタンスが倒れて引き出しが飛び出し、その間に挟まれて身動きができなかった。夫の様子は見えず、最初は声をかけると返事があったが、次第に声が聞けなくなった。二階の落ちた柱だろうか、それを血の出るほど叩き、声を限りに助けを求めた。そのうち、二階に住んでいた若い兄ちゃんが気づいてくれて「おばちゃん、どないしてでも助けたる。頑張れよ」と声をかけ続けてくれた。姫路から来た消防隊に足から吊あげられて救出されたのは午後4時。「まだ主人がいる」と訴えたが、「残念ですが、ご主人の応答がない。他に救出しなければいけない人が沢山いますので…。申し訳ありません」と消防隊員は頭を下げられてしまった。お隣のご家族は3人か4人なくなったそうだ。夫の遺体が掘り出されたのは2日後。警察官に「ショックが大きいだろうから見ない方がいい」と勧められて、死骸を見れなかった。家財も一切持ち出せなかった。夫の遺体は集会所にほかの方の遺体とともに収容されたが、検死葬場の関係で「2月中の葬儀は無理」といわれた。実家から弟が駆けつけて警察と交渉し、葬儀は身内だけで執り行った。3年半ほど、そのまま弟の世話になり、今の復興住宅に入った。今まで生きてこられたのは、震災前から書道と短歌に親しんできたからかもしれない。3年前からは短歌の先生の都合で短歌が習えなくなり、俳句に切り替えたという。現在は子息と二人暮らし。外目にも疲れの色は隠せず、生活の大変さは相当のものだろうが、あえて多くを語ろうとしない。「俳句と短歌のおかげで頭だけはしっかりしているから」と表向きはあくまで気丈。どれだけ話しても他人には本当のことは分かってもらえない―そんな一種の諦念のようなものさえ感じられた。俳句と短歌を一首づつ紹介しておこう。「わすれない あの日の苦しみ 五時四十六分 むだなく生きて 亡き父に語ろう」「シニアとて 革命ありや 花茨」。心の奥底のやるせない、悲痛なまでの叫びを聴いた。
お話伺いメモ 2009/5/23
※この週は新型インフルエンザの影響により、活動中止となりました。