お話伺いメモ 2009/12/12
70代女性、夫婦2人暮らし。須磨区で全壊。奥さんと1時間ほど玄関でお話しを聞く。尼崎市の市場で総菜屋をしていたが、震災の前年に尼崎から須磨区に引っ越し、母親と同居していた。震災の時は、尼崎のまだ荷物の残る部屋にいたが、このアパートも全壊。自分の部屋はかろうじてドアが開いたが、他の部屋はひどくつぶれていた。その後、尼崎の知り合いの家にお世話になり、仮設住宅には入居していない。ここの住宅も10年前の4月に入居。近所に母親と同居する妹がいたから。仮設に住んでいないので一般枠での募集で入居。ここは神戸市が公団から20年借り上げの住宅で10年後には出ることになるらしい。私の部屋は3LDKで公団。ワンフロアに一部屋だけ、この部屋の上下に公団の部屋がある。公団なので家賃が10万円。今は夫婦の国民年金とそれぞれのパートの収入があるからやっていけるが、これから先が不安。とても10万円の家賃は払えない。市の住宅の担当の人とも相談して公営住宅に応募しているが3回外れた。自分は大阪方面のホテルの清掃の仕事を仕事をしているので、6時ごろの電車に乗る。ここの棟は清掃のプロが各階に一人はいるから清掃の人も手を抜けず、いつも廊下やエレベーターの中はきれいと言われた。だから、どうしても交通の便のいい住宅しか住めず、郊外の住宅は倍率が低いが住めない。便利のいい住宅は倍率が高くなる。私みたいに70歳になっても働き、自立できる高齢世帯の応援を行政もすべきだ。働いている高齢者の支援をもっとして欲しい。家は全壊だが、仮設に入っていないので被災者枠での入居ができない。この面でも何とかしてもらいたい。
自分の希望はここの近所の住宅に入居できること。妹夫婦もおり、仕事にもいける。何とかして欲しい。夫婦とも長田区の出身。ともにケミカルシューズの仕事をしていた。私は縫い子。主人はゴムを伸ばすロール工。知り合いの紹介で尼崎の市場で店を開くことになった。30年ほど店をしていた。今、主人もアルバイトをしている。お互い、働ける間は働こうと思っている。気さくで元気のいい奥さんだった。商売でも立ちっぱなしのお仕事で、今でも足腰は丈夫そう。1時間ほどの立ち話でも平気なようであった。
お話伺いメモ 2009/12/26
20代男性、中央区で被災。住める状態ではなかったが全壊判定にならなかった。仮設住宅には入らず姫路の親戚宅へ身を寄せた。復興住宅入居に不利となったため、竣工が遅かったこの復興住宅へ。
60代女性、東灘区で被災。娘さんと同居。もう一人の娘さんが双子の出産のため入院中で、その看病と孫の世話に追われている。被災当時少年であった息子さんも独立しているが、近くの公営住宅に住むようになり、やはり孫の世話などをあてにされているとのこと。
70代夫婦2人暮らし、東灘区で全壊。六甲アイランドの仮設住宅からこの復興住宅へ。入居申し込み当時、奥さんがまだ60歳に達していなかったため、高齢者世帯として優先されなかった。
80代女性、震災時は息子さんが東灘区で全壊、本人は尼崎で入院中だった。ご主人を40台で亡くし、筋肉が弱る病気と腰痛を患っている。息子と孫2人が働いて4DKの部屋に00万円を支払っていて、田舎からも色々と送ってもらって居る。寂しくないし、今は安心して暮らしている、とお歳にはとっても見えない色つやでお話を頂いた。
70代、中央区で半壊。所有していたビルが半壊となり、事情があって手放した。震災の時火が出なかったのが幸いだった。この復興住宅に入居して6年だが不自由はしていない。家賃は0万円であるがもう少し安ければいいと思うと話された。もう被災する事もないだろうと、小学校の時の津波の事を思い出しておられた。