第504回 お話伺いメモ 2010/4/10
・70代、女性。中央区で被災全壊。小学校に避難。3ヶ月いたがその後近くの文化住宅に移り、小学校までお弁当を頂きに行ってました。仮設は何度申し込んでも当たりませんでした。ご主人と娘さん、自分と怪我もなく助かったのは何よりとおっしゃっていらっしゃいました。息子さんは別のところにいて無事でした。マンションごと潰れていたのを呆然と見ていたように思います。火は出なかったものの何一つ出せず本当にそれぞれ身一つで逃れたのです。その頃から体の弱いご主人は、3年前に他界された。ここには出来てすぐ入居し娘さんと二人暮らしです。自分はペースメーカーを入れているし、娘さんは病弱で入退院を繰り返しています。息子さんは40代です。この公団には10万からの家賃を払っておられるとか。そして避難所の話を懐かしそうに、あの頃は皆それぞれがいたわりあっていたが、ここに移ってからは集会所にも人はあまり集まらなくなったがと淡々と話してくださいました。もしこれから災害があればと思い水と少しの食べ物はいつも貯えていますとのことでした。娘さんが早く良くなられると良いですねと30分余りのお話伺い。
男性80代、妻(70代)と2人暮らし。東灘区駅近くで全壊。中学校で避難生活をしていたがタバコを吸うのであまりいい顔をされず、マンションを借りて4年いました。地震の時全壊した家の地盤が、昭和13年の水害でゆるい上に建ててあったのでしょうか、すごい揺れで柱が2つに折れてしまいました。JRの線路沿いの石垣が崩れて出られず、中の者は息子さんが助けてくださった。平成12年にペースメーカーを入れ、病院で3ヶ月に1度検査を受けています。息子さんは1人だが、今の世情でまだ独り身と話されてました。今の若者はかわいそうだとも言われてました。ご主人は体が弱く60歳までしか勤めが出来ずにいるが、奥様がお元気で今も働いておられるとのこと。そして戦争の話をしてくださった。昔は近所どうし助け合って生きていたと、又奥様がお世話好きで一時は近所のお子様を5人くらい預かっていたこともあります。それにくらべて今は隣は何をする人ぞですね。でもここは年齢がいっているので管理費を安くしてもらい安心である。話の途中、窓の下を指差してここには保育所があったのだと。現在日本が困り果てている沖縄の話などもしっかりと話され、若い頃志願兵をして行ったのはごはんがお腹いっぱい食べられるからだと。戦争、空襲、水害、地震と何もかも経験した中で若い女性が爆撃でたくさん死んだことを今でも目に残っていると。遠い目をして挺身隊の白いタスキが草の上に並べられていたことを思い出す。戦争はいやですねと。1時間以上の訪問。最後には「清水次郎長」の歌を3番まで歌ってくれました。一同3番では一緒に歌った。遠い目をしながら。
70代女性、灘区で全壊。姉妹3人で大学体育館で2カ月お世話になりました。不自由、大変だったこともありましたが、今思い出としてお世話になった事、楽しかった事だけが思い出せます。体育館を暖かくしていただきありがとうございますの一言につきます。現在は姉が介護4で私たちも病気がちです。心配事といったらきりがありませんので一日一日を楽しく過ごしています。今後ともよろしくお願いいたします。(自筆記述)
第505回 お話伺いメモ 2010/4/24
70代男性、一人暮らし。兵庫区で全壊。怪我はなくガレキの隙間から自力で脱出されたという。その時は「アッ」という感覚だったと言う。近くの公園に1月ほど避難、仮設に申し込んだが当たらなかった。一番困ったのはトイレ。あちこちに穴を掘ったり、水道が復旧していない水洗トイレに給水車からもらってきた水をほとんど費やしたりした。こうした情況にたいして市職員は衛生が悪いと文句を言うだけだった。その道の組の人が肉を差し入れてくれた。「やっぱ人間やで!」。自衛隊の風呂に入ってやっと汗を流した。水道が復旧した娘さんのマンションへ移ったが、電気・ガスの復旧が遅れた。今はどんなところへ住みたいかと聞くと、高層住宅ではなく地面に接したところに住みたいと思うが…とのこと。廊下に出て六甲の山を見ながら、30分のお話伺い。
70代女性、夫婦2人暮らし。芦屋市で全壊。近くの小学校に避難したが、トイレ掃除がたいへんだった。市外の公営住宅を経てこの復興住宅へ。テレビが楽しみ、介護保険料が高くなってたいへん、今では地震のことを笑って話せるようになった。夫婦仲良く元気で暮らしているご様子。
40代男性、一人暮らし。灘区で半壊。息子3人は逃げたが父親は母親の仏壇のため家に残った。近くで何人か亡くなった。港湾の仕事をしていていろいろお話して下さった。政治に関心があり、ビールが友達。律義で優しい人。訪問に向かうボランティアの姿を見て待っていてくださった。