第506回 お話伺いメモ 2010/5/8
80歳女性、今は息子さんとお孫さんと三世代で住んでいる。訪問を待っておられた。冷たいので中へどうぞと玄関にいれて頂き、お話を伺う。地震のとき、ゴー、ドーンなど爆弾のような音がして、次に揺れが始まる。が南北に揺れたので何も落ちてこなかった。家族は誰も怪我はなかった。避難所、仮設には一度も行っていない。半壊のまま屋根など修理して住んでいた。姉の家が全壊したので一緒に住む。電気は早く来た。ガスが遅かった。煮炊きはカセットコンロなどで。他に、炊き出しやおにぎりなど区域の青年団の人達が配達してくれた。水は住吉川の東側に住んでいたので、川から水を汲んできた。風呂は1ヵ月後に尼崎まで入りに行った。他に比べて被害が少なかったと言っておられた。夫が5年前に肺からくるリンパ腺がんに罹って死亡。その3年前に脳梗塞で倒れる。病気の原因を震災との関わりについて尋ねると、それはないと否定される。が夫が経営している長田の仕事場、旋盤工場が全壊したとのこと。機械など潰れてしまい、再開するも機械の購入等大変だった。景気が悪くなる一方なので尚更・・・と。明るく話されている表情からは想像できない苦労をされてこられた、人生の行程を垣間見た思いがした。近所とも付き合いがあり、とても明るい表情でお話されたのが印象的でした。1999年4月にここに移り住む。約50分のお話伺い。
70代女性。長田区で全焼。近くの小学校に避難したが,そこにも火が迫ってきたので,別の中学校に避難,3〜4日過ごす。枚方市の弟さん宅を経て,京都市の公団住宅で3年8ヶ月過ごす。いろいろな手続のため長田区役所に通った。4年目にやっとここが当たり嬉しかったです。10年前にご主人が亡くなられたとのこと。その後当初C型肝炎だったが治ったと言われたのにガンと診断を受け、11回入退院を繰り返したが今は落ち着いている。病気がわかるまではボランティアもしていたが止めて今に至ってます。老人会に入ってボーリングを楽しんでいます。子供はいない。姉妹と弟と6人で今も来ていますよと言われ、明るい人でした。
第507回 お話伺いメモ 2010/5/22
60代の男性。我々の訪問を待っていたらしく、快く話に応じてくださった。震災前は灘区に住んでいたが、震災で自宅が全壊したためにたいへん困ったという。震災後は、経営している会社の事務所として自宅を建て直し、現在に至るとおっしゃっていた。入居してから11年が経ち、現在妻と息子二人の4人で暮らしているとのこと。震災直後、奥様が倒れたガラス棚の破片で額を切るという怪我をされたが、須磨から来ていた病院の優しい外科の医師による手当てのおかげで、傷跡が残らずにすんだという。ご近所の方で怪我をされた方はいたのかを尋ねると、亡くなられた知人の話をしてくださった。家の裏手に住んでいた足の不自由な方を助けようと、「助けましょかー!」と声をかけたが、その方に「もういいですわ」と言われたエピソードを、涙を滲ませながらも語ってくださったのである。現在はご夫婦揃って元気で、ボランティアの訪問をありがたいとおっしゃってくれた。震災時の話だけでなく、ご子息が沖縄ファンであり、彼が神戸から沖縄、宮古島を経由して石垣島にも行ったことがあるのを話してくださった。知人を失うという辛いことまで語っていただいたことに多少の罪悪感を覚えたが、彼は最後まで我々の問いにいやな顔ひとつせずずっと話しを続けてくれた。またこの週末ボランティアに関心を持たれたようで、話の終わりにはインターネットで調べておくよと言われた。彼の言葉で、このボランティアの活動意義に少し気付けたような気がした。
80代の夫と妻。夫婦二人暮らし。灘区にて地震に遭い、自宅は古かったために全壊。近くの中学にてしばらくの間避難生活を送る。その後は六甲アイランドの仮設に移るが、住みづらかったために県外の県営住宅に引っ越したという。そのため復興住宅にはなかなか当たらず、現在の公団借り上げに10年前やっと入ることができたが、家賃が高いことから1人になれば払いきれないとおっしゃっていた。ご夫婦ともに足が不自由の様で、奥様は手押し車でかろうじて買物ぐらいは行けるようであった。御主人は自転車で2回転んだのが原因で歩くのが大変になり、週1回の病院への通院には車椅子を利用されているとのこと。週1回に1時間半だけですがホームヘルパーさんに掃除や用事などをお願いしているという。御主人の生まれは神戸で兵隊にも行きましたが、国内であったので海外ならば恩給がついたのにそれもなく、2人の子どもも結婚してあまり家に来ないし、知人とも離れ、近所の人と話すこともなく寂しいと、とつとつと話してくださった。また時折話がはずむ中で、現役時代の電車に勤続35年務められたことや今の楽しみは野球とプラモデル等を作ったことをうかがった。今の家の家賃は95,000円と高額で市営や県営に入居したいのに思うようにならない。とうに金婚式は過ぎたがもし1人になった場合に現在の家賃が払っていけるかどうか不安で心配である。週1回のヘルパーさんでは近くにある病院に連れて行ってもらえるだけで他にしてもらえることが少ない。除隊のときは3万しかもらえなかった。風呂は1人で何とか入るけれど大変であることなどを色々語ってくださった。御主人の父親が100歳まで長生きされたことを話してくださったが「年はとりたくない」と寂しそうに呟かれていた。私たちにはどうぞお元気でと言葉をかける事しかできなくて辛かったです。長生きしてくださいね。
60代女性、夫と二人暮らし。中央区で被災。震災で家もろともペッシャンコになってしまった。犬を抱っこして冷蔵庫と流しの間に立っていて命は助かったけれど、引きこもってしまった。震災から4年後脳腫瘍を患い緊急入院した。余命6ヶ月を宣告され、身辺整理を始めるも回復は早かった。夫はこの間疲れきって何もする気を起こさなかったが、この時ばかりは奮起して日雇いの仕事をして現金を稼いだ。退院して映像が消えた。母の顔すら思い出せない。余命宣告が訪れた8月に母が亡くなった。母から命を授かったと思った。母から常日頃から、夜は風呂・ヤカンなどに水をいっぱい張りなさいと教訓を受けていたことがこの震災では役に立った。近所に住む人が妻・娘・ネコの呻き声を3日間聞いていた。近所の人たちも聞いていた。みんな手に道具を持って助けようとしたが果たせなかった。無念の想いから今でも耳から離れない。また、小さなビルに母子4人で住んでいたが、母親は赤ちゃんと1歳の子と4〜5歳の子を抱いてペッシャンコになっていた。常日頃から母親が夜仕事に出るとき、送る子どもたちの声が耳に残っている。それから肺癌を患い(余命4ヶ月)、放射線治療を受けて癌は無くなった。リンパに近いところなので効果は10%と言われていたけれども・・・。「わたしの家には喫茶店に来るように、いつでもお茶を飲みにいらっしゃい」と気楽に声をかけて頂き、家に入れて頂いて、1時間余り震災と震災後のお話を傾聴しました。