第514回 お話伺いメモ 2010/9/11
70代女性。灘区で全壊。震災時は夫婦二人暮らしでした。ちょうど断層の真上で被害が一番ひどい地域に住んでいたため、付近一帯はほぼ壊滅し、近所で亡くなられた人も多かったとのことです。また、同じ断層上で被災したの知り合いも「柱がねじ曲がるように折れた」と当時の震災の凄まじさを語っていたそうです。ご自身、ご主人をこの地震で亡くされました。柱や箪笥が倒れてきた際、ご主人に庇われたそうです。ご主人の最期の言葉は「大丈夫か?」で、最期まで奥さんの事を気にかけてくださったそうです。崩落した建物に挟まれ身動きが取れなくなっていたものの、幸いにも炎上することはなく、まもなく救出されたとのことです。その後、近くの小学校に一時的に避難し、そこでご主人の遺体を診断してもらった後、大阪市の親戚に火葬してもらったとのことです。奥さんはその後一月ほど故郷の松山に帰郷したのち、六甲アイランドの仮設住宅に移動し、そこに四年間住んだ後、現在の借り上げ住宅にようやく当選したとのことです。震災時には肝炎を患っていたものの、特に日常生活に支障はありませんでしたが、昨年心臓の病で倒れて手術を受け、また肝臓の状態も悪化して現在は日常生活に不自由するようになってしまいましたが、ヘルパーさんや親せきの奥さんが色々と手伝ってくれるので大いに助かっているとのことでした。現在は病状は小康状態のようで、顔色は比較的よさそうでした。夕方までは玄関のカギを開けておくなど、他人との関わりを求めているような家で、上がり込みのお話伺いをしました。
60歳女性。東灘区で被災。ご家族四人のうち長男を除く三人が足などに重傷を負い、無事だった北区の病院に入院しましたが、幸い今は完治し生活に支障はないそうです。震災直後は被害を免れた主人の姉の家にもろもろ世話になり、退院後はその近くのアパート→マンションに三年といった風に転々としたそうです。何度も公団申し込みを行いましたが、まだ当時十分若かったため、現在の住居にようやく潜り込んだとのことでした。現在でもご主人は働きに出ているそうです。震災当時高卒で働きに出ていた長男の会社が震災で傾きかけたり、奥様が四年前より肝炎を患い治療を受けていたりと家庭内で諸々の事がありながらも、現在は平和に暮らしているようでした。
70歳女性。灘区で被災。全壊。全壊のアパートを大家が修理したが、やはり怖いので実家の三重県で一年ほどいた。新開地の公団に22年いたが、家賃が高いのでここに平成14年に引っ越してきました。新聞入れに入っていた神戸市の借り上げ住宅のチラシ(住み替え)を見て、怖くなりました。平成31年までにここを空っぽにしないといけないと書いてありました。それを見たときは眠れませんでした。9年後は85歳。その年齢では引越しができないので来年にでもここを出なければと思っていた、と切々と言われた。「すぐに出ることはないですよ。少なくとも9年間はおれますよ。どっしりと構えていてください」というと安心され、感謝された。神戸市のチラシと資料を貸してもらい、コピーした。内容は「住み替えをお願いすることになります」「ここの住宅の期限は平成31年3月まで」などと書かれていた。しかし、まだ説明会も具体的なことは決まっていないことも書かれており、そのことも伝えておいた。一人暮らしで29年間過ごしてきた。困ることといえば、電球の付け替えやクーラーの簡単な掃除ができたらいいのに、と言われた。高いとこに上るのが怖いので、何とかできないかと相談され、「月に2回ここに来るので連絡して下されれば何とかできると思いますよ」と言っておきました。住み替えの件ですが、「最後までがんばってみますか」といいましたら、「あとになると不自由な場所に移されそうでつらいです」といわれた。そして最後にケアハウスをつくってくれたらいいのに、安くて入れるとこがあれば残りの9年の後、安心して生きていけるのに、と少し寂しげな声を出された。人事でないと感じてしまいました。年よりも若く見えて、お元気そうでした。ここのフロア(14軒)は3軒だけが神戸市の借り上げなのでとても心配ですと話を切り上げるまで言われていました。何とかできるといいなと思いながら別れました。
70歳男性。東灘で被災。全壊。約30分の訪問。公民館に1年おりまして、六甲アイランドの仮設に入って、出来上がったこの住宅に入居11年目を迎えます。寂しいと思ったことはありません。元気で、2ヶ月に一度検査するが悪いとこはありません。初めはドアも半開きで、話も弾まなかったが、造園のこと、趣味のことなどを話し出して長い時間をお話伺いしました。今でも現役。造園の仕事をされており、花壇の世話などですか、と聞くと「自分は樹木の関係で働いている。花壇は素人さんがやるもの。今は知り合いのとこで働いている」とおっしゃった。兄弟は5人。全員、神戸に住んでいる。震災の時より一人ぐらしだが、今は元気で老後の心配はしていない。今は夏場なので暇だが、秋から忙しい。今の時間帯に家にいるのは珍しい。暑いので今は仕事を控えている。今日は会えてよかった。趣味は魚つりと登山。昔は東シナ海まで行っていた。今は和歌山や淡路島まで。造園の仕事は40年になる。お米の話をすると、種籾は政府が管理していることも教えてもらった。温暖化を心配しましたら、「日本のジャポニカは暑さ寒さに強くできているから心配はいらない」と教えてもらった。さらに最近の苗は機械で植えるので短く20センチほど、昔は手で植えていたので40センチほどあったことなど身振り、手振りで教えてもらえた。元気な人で、とても歳には見えなかった。お米の話の途中で切り上げる形になったが、もっといろいろと話ができればよかったと思う。
第515回 お話伺いメモ 2010/9/25
70代の女性。御主人と暮らしている。全壊。震災当時は灘区に住んでいた。御主人がガラスの破片で怪我をされたため、避難所で麻酔がない状況の下、赤十字の先生に応急処置をしてもらったそうである。最初に東灘区の小学校に、その年の6月に別の小学校で避難生活を送りました。その後近くの8万のマンションで1年、新築のマンションで4年を過ごし、平成11年になってここの住宅に落ち着いたという。76平方メートルは2人では広すぎますよね、と言っておられた。避難所では給食の係を5,6人で受け持ってやって居ました。
小学校では1500人分の弁当が来ていましたが、残る事もあり外部から来た方にも配ってました。水は1人1本当てでした。よそから来た方がボランティアして下さいまして、京都や奈良の女性の方々で有難かった。実はいまでもボランティア等をされていて、年会費1200円/月で100名を越えていてカラオケや色々とやっています。実は防犯にも力を入れていますよとも言われて、近日振り込み詐欺がありましたよと言われながら婦人警官の付いたカレンダーを玄関に張ってあったのを示した。
今は不安はありませんよと笑顔で言われながらも、公団に入って10万ですが、32年(平成32年、10年後の事)には13万にもなるからちょっと大変かな、と若々しい声で言われました。活発に行動されているが近隣トラブルには頭を悩ませているとのこと。公団や市に行って話されているが、掛け合っても埒が明かないと愚痴をこぼされていた。とはいえ、本当に若々しく声も良く通り、元気と力を頂きました。約40分のお話伺い。
60代女性。全壊。灘区住んでいた。1年半のテントでの生活と1年の仮設住宅での生活を体験されたという。当時は御主人と娘さんの3人で暮らしていたが、ここに入居してから娘さんは嫁がれ、御主人はそのあとに癌で亡くなられたそうである。その間、病院での入退院を繰り返し、最後にはホスピスへ入所することができたが、自宅で最期を迎えたいと強く望む御主人の願いを聞き入れ自宅での介護に励まれたという。
現在この奥様はパートで働きに出ており、昼と夜の仕事をしているため少し小さい家を申し込むか検討していたが、御主人が亡くなられて忙しくなり、時間に追われるうちに時期を逃してしまったという。震災前も今も2個所かけもちでお努めされたそうで、10年後の返還のことはあまり深く考えたくない、その時が来ればその時に考える。今は共済費込みで5万ほど払っている。朝9〜4時、夜6〜11時働いてとても元気のあふれる方で、前向きで立派であった。部屋に通して飲み物を頂きました。女性は強い!