第516回 お話伺いメモ 2010/10/9
70代女性、中央区のマンションで被災、半壊。ご本人直筆。健康状態は今は非常に悪く、外出ができない日が多い。若いころの交通事故の後遺症が震災後に悪化して60歳で辞職しました。現在は慢性心不全による障害者です。家庭内での日常生活、活動が著しく制限される心臓機能の障害です。
震災後、北区の兄の家で10日間。バスが開通するようになって朝一番のバスで家を出て、それから徒歩で三宮〜六甲道、会社に到着が昼前。通勤時間がかかるので8時ごろ最終で兄宅について10時。一番辛かったのは通勤時間と、社員の女性8人でしたが田舎に帰ったりしてたったの3人。1年間は事務所は多忙で会社に近いマンションを借りて朝8時に鍵を開けて帰宅は10時。山麓バイパスのトンネルが普段は15分なのに、震災のときは着くのに2時間くらいトンネルの中で、非常に体力的に辛かったです。現在は1人暮らし。線を引いて、丁寧な記述。
女性。二人暮らし。東灘区で被災し全壊。約30分の訪問。震災後は親戚の家で4〜5年過ごして神戸へ戻りました。お名前、お年は聞かせてくださいませんでしたが若々しい方でした。借上住宅の件についてははじめからわかっていましたが今はすごく便利になって家賃が上がり、共益費が1,000円下がりました。今は少しお勤めしています。この前のチラシには、引越料も出ると書いてありました。しかし、お年を召された方に時々お会いすると、引越しすればまたコミュニケーションがなくなるし、もう引越しする元気がないと嘆いていましたよ、と…。
自分は震災後、親戚の家にいたので、被災者扱いされていませんが、買い物に行ったとき、疲れておられるお年寄りの方を見ると思わず荷物を持ってあげたくなります。県外から引越しをされたお年寄りの方は特にかわいそうですと心から同情する表情をされていて、優しい方なのだなと思いました。いついつまでに明け渡しと言いながらも、2〜3日前には人が引っ越してこられたのも見ましたし、できればお年寄りの方はもう少し待ってほしいとも言われていました。本当に引っ越さなければならないのなら順番にしてほしい。いつが最後の引越しなのかと少しだけ不安も見せられました。今は、ここはとても便利でできればここにいたいのが本音です。お名前をお聞きしましたが、郵便受けの名札を取られたけど不自由はないので名前を出すのは勘弁してくださいと。言葉も優しく暖かいお人柄のようで私たちにも「おつかれさま。」と言われました。
60代男性。灘区で被災し、全壊。若くてなかなか仮設に入れず、小学校の避難所に1年弱いた。その後、ポーアイの仮設に入居。被災前は2階建てアパートに住んでいた。近所では亡くなった人がいた。ここは寒い。体を壊した。たばこ、酒のにおい、ヤニがすごい。生きていくのが精一杯。仕事がなく生活保護でなんとかやっている。出なければいけなかったが出るところがない。なんとなく住んでいる。高血圧、痛風、肝臓が悪い。今は飲まないが昔はかなり飲んでいた。外出は買い物程度。がらんとした部屋で、一人横になってテレビを見ている。多くを語りたがらない。
第517回 お話伺いメモ 2010/10/23
60代男性。兵庫の公団で被災。半壊。家族に怪我はない。奥さんと大学生、高校生の4人暮らし。ご主人は神戸港の検数(けんすう)職場。震災後も職場を離れられず、子供(当時小学、保育園)と奥さんの実家の広島に避難。ご主人は友人宅に一ヶ月お世話になる。港は2年ほどで開港した。震災後、職場の人間は2〜3年は東京、名古屋、大阪などに行った。戻ってこない人も多い。ここには新築から、入居11年の公団。家賃が高いので隣の市営の部屋に変わりたい。3LDKで80平方メートル。市営よりは広い。家賃は10万円。今は同じ職場で契約社員で働く。自転車で通勤。神戸港は今は暇である。コンテナは韓国、シンガポールに移った。今は、中国への衣料の荷があるぐらい。給料は大変減った。だからさらに人が減る。今は、トラックの運転手で8,500円ほど。10年前でも1万円以上はあった。今は基礎年金と給料。年金があるからやっていける。住民は当初の半分ぐらいになった。亡くなったりして減った。
要望はと聞くと、初めは買い物が不便だったが今はスーパーができてよくなった。将来は妻の実家があるのでそこに行くことにしている、とおっしゃり、だから今後の住宅のことは話題にはならなかった。初めは淡々としたしゃべり方だったが、途中から話が弾み、職場のことなど話しになった。若くて元気そうだった。スーパーもできて、生活上の不便はないが、今は家賃が高いことだけが気がかりだ、とおっしゃっていた。
70代女性。灘区で被災。半壊だが住めない。その当時は仕事をしていたので起きていた。電気の傘が落ちてきたりして大変だった。すぐにジャンパーを引っ掛けて夫と二人、ただ呆然と表に立っていた。長男が見つけてくれた。近くの小学校はいっぱいで、駆けつけてきた子どもたちと、車の中に毛布を持ち込んで6人で丸2日過ごす。避難所に安置されていた姪の父親が火葬されるまで、その間食べ物がなく、二日目にお饅頭が一つだけで過ごした。孫がお腹がすいたと悲しそうにいった言葉が思い出される。その後丸2ヶ月は息子の住んでいる西区に身を寄せる。夫は震災前から透析していた。中央病院から近くの病院に移る。二日間の避難生活で一番困ったことは、トイレの水。紙を流さないでと言われ、プールから水を汲んできたりした。仮設住宅は住んでいた近くの公園に当たって、4年間住む。顔見知りは誰もいなかった。
借り上げ住宅入居でここに移って11年。夫は8年前に亡くなり、上の息子が2ヶ月いてくれてうれしかった。今は子供たちと孫がしばしば訪れ、友達はたくさんいるので毎日を平穏無事に送れている。血圧が高い。今用意しているものは懐中電灯と履物をそろえておく事と言われ、食器など、家具は殆ど置いていないそうだ。今も地震のテレビを見ると思い出して涙ぐむと言われる。快活に話されている様子が印象的でした。